はじめに
地方自治体やDMOが推進するDX(デジタルトランスフォーメーション)は、単に観光客の利便性を高めるためのアプリ開発に留まらず、地域が抱える構造的な課題、特に人口減少と公共サービス維持のジレンマを解決するための基盤投資へとシフトしています。この流れは、公共施設の管理・運営という、地味ながらも地域行政の根幹をなす領域で顕著に見られます。
本稿では、兵庫県豊岡市が取り組む行政DXの事例を深掘りし、導入された具体的な技術が、いかにして行政の意思決定を「勘と経験」から「データ駆動」へと転換させ、結果的に地域全体の持続可能性、そして観光地としての競争力強化に貢献しているかを分析します。
(参照:MyNavi Tech+「兵庫県豊岡市が進める行政DX – Akerun×Spacepadが実現する、人口減少時代の新しい公共サービス」https://news.mynavi.jp/techplus/article/20260204-4078649)
豊岡市が直面した「施設の壁」と行政コストのジレンマ
開湯1300年の歴史を持つ城崎温泉を擁する豊岡市は、有名な観光地である一方で、他の地方都市と同様に深刻な人口減少と高齢化に直面しています。この構造的な課題は、行政サービスに二重の負荷をかけます。
- 施設維持コストの増大と職員不足: 老朽化する公共施設が増える一方で、それらを管理・運営する行政職員や地域の人材が減少し、一人当たりの業務負荷が増大します。
- 利用ニーズの多様化への対応困難: 働き方や生活スタイルの変化に伴い、住民は夜間や休日の施設利用を求めますが、これに対応するたびに追加の人件費や管理コストが発生します。
従来の「人手と鍵」に頼る管理体制では、これらの課題は解決できません。特に、鍵の受け渡しや、職員による利用前後の確認作業は、極めて非効率で属人的な業務であり、このボトルネックが公共施設の稼働率向上と利便性向上を阻んでいました。
導入ソリューション:鍵のデジタル化と予約のクラウド統合
豊岡市がこの課題解決のために導入したのは、次の二つのソリューションを連携させるアプローチでした。
1. スマートロックシステム「Akerun」
機能: 既存のドアに後付けできるスマートロックで、物理的な鍵の代わりにスマートフォンやICカード、QRコードなどで施設の解錠・施錠を可能にします。鍵の権限はクラウド上でリアルタイムに発行・削除・管理が可能です。
2. クラウド型施設予約システム「Spacepad」
機能: 公共施設の予約受付、利用許可、支払い、利用者への利用通知などを一元管理するシステムです。予約と同時に、予約時間に合わせて上記「Akerun」の解錠権限が自動的に利用者に付与されます。
この連携により、豊岡市は公共施設の「鍵管理」と「予約受付」のプロセスから、職員の手作業を完全に排除しました。住民や利用者は、オンラインで予約を完了すれば、指定された時間にスマートフォン等で施設に入退室できるようになったのです。これは、住民QOLの向上だけでなく、行政の業務負荷を劇的に軽減する効果を生み出しました。
この取り組みは、デジタル田園都市国家構想などの公的補助金や予算を戦略的に活用し、地域課題解決に不可欠なインフラ投資として位置づけられたものです。単なる「便利ツール」導入ではなく、「公共サービスを持続させるための基盤再構築」という明確なROI目標を持っています。
データ活用による行政の意思決定の質的転換
このDXがもたらした最大の成果は、現場業務の効率化ではなく、行政の意思決定がデータ駆動型に質的に転換した点にあります。
従来、公共施設の利用状況は、紙の台帳や担当者の記憶に依存していました。しかし、AkerunとSpacepadが連携することで、施設への入退室データと予約データがクラウド上で統合され、以下の情報がリアルタイムで可視化されるようになりました。
- 稼働率の正確な把握: どの施設が、いつ、どれくらいの時間、誰によって利用されているのか。
- 利用時間の最適化: 住民の実際の利用動向(例えば、早朝や夜間の需要)に基づき、施設の開館・閉館時間を柔軟に変更する科学的な根拠。
- 収益化ポテンシャルの特定: 潜在的なニーズが高いが、人手不足で対応できていなかった時間帯を特定し、無人管理下で利用を促すことで、施設の収益(使用料)を最大化する道筋。
特に地方行政において、公共施設の「統廃合」や「廃止」の判断は、住民の感情や政治的な配慮が絡む非常に難しい意思決定でした。しかし、デジタルデータが、特定の施設やサービスが地域にとって本当に必要とされているか、また、どれほどの潜在需要があるのかを客観的に示す強力な証拠となります。
これにより、行政は、特定の施設の維持・投資の判断を、「住民のリアルな利用実績」という客観的なデータに基づいて下せるようになりました。これは、限られた行政資源を最も効果的に配分し、持続可能性を担保するための、決定的な転換です。
あわせて読みたい:データ活用の本質は意思決定の質的転換:動的制御で住民QOLと観光収益を両立せよ
現場業務の負荷軽減と地域全体の汎用性
この豊岡市の事例には、他の自治体やDMOが模倣すべき、極めて汎用性の高いポイントが含まれています。
1. 施設管理の「摩擦ゼロ」化
鍵の管理や受け渡し、利用後の確認といった、担当者にとって負担の大きかった「中間管理業務」が自動化されました。これにより、限られた行政職員や地域住民のボランティアスタッフは、より価値の高い業務(例えば、利用者へのサポートや施設の企画運営)に集中できるようになります。
2. デジタルIDとアクセス権限の統合
重要なのは、単にスマートロックを導入したことではなく、「誰が(デジタルID)、いつ(予約データ)、どこにアクセスしたか(鍵データ)」という情報が完全に紐づいたデータ基盤が構築された点です。
これは、公共施設だけでなく、地域の様々な施設やサービスへの応用が可能です。
- 観光分野への応用: 地域住民が利用する施設(公民館、体育館など)を、閑散期や利用頻度の低い時間帯に、観光客向けの体験施設やコワーキングスペースとして転用する際、このアクセス制御システムを流用できます。観光客のデジタルIDと結びつけることで、無人での受付・利用、そしてセキュリティを両立できます。
- 宿泊分野への応用: 人手不足に悩む小規模宿泊施設や無人運営の宿泊施設において、チェックイン情報(デジタルID)と連携した客室へのアクセス権付与を完全に自動化できます。
豊岡市は行政施設の効率化という小さな一歩を踏み出しましたが、得られた「アクセス管理とID認証のデータ基盤」は、観光地・城崎温泉のバックヤード業務(清掃やメンテナンス業者の施設入退室管理)や、地域交通(予約型バスやシェアサイクル)の利用管理など、広範囲な地域インフラのDXを支える土台となるのです。
ROIと持続可能性:コスト削減から収益創造へ
豊岡市の取り組みは、短期的なコスト削減(ROI)と、長期的な公共サービスの持続可能性(サステナビリティ)の両方を追求しています。
短期的なROI:管理コストの抑制
施設運営にかかる人件費(鍵の受け渡し、立会、巡回など)を削減し、職員をより専門的な業務へ再配置することが可能になります。これにより、行政サービスの質を落とさずに、運営コストを抑制できます。
長期的な持続可能性:インフラのデータ資産化
公共施設の利用データは、その施設の価値を測るだけでなく、地域住民や観光客の行動パターンを把握する上で貴重なデータ資産となります。このデータは、将来的な都市計画、地域交通のルート設計、さらには新たな観光コンテンツ開発の意思決定に活用されます。
特に重要なのは、公共施設を住民のQOL向上に役立てつつ、観光客向けに高付加価値サービスとして提供する「二毛作」運用です。無人運営が可能になることで、24時間営業や早朝利用など、従来は人件費の壁で実現できなかったサービスを提供し、施設の収益性を高めることができます。
このようなデータ統合とROI駆動の意思決定は、観光DXの停滞を打破するために不可欠です。属人的な業務プロセスや、情報が断絶したままの「文化の壁」を破壊し、行政、観光事業者、住民のすべてにとって持続可能な地域経済基盤を築くことにつながります。
あわせて読みたい:観光DXの停滞は「文化の壁」:データ統合でROI駆動の意思決定へ
他の自治体への提言:DXは「手段」ではなく「インフラ」である
豊岡市の事例が示す教訓は、「DXとは、特定の業務をデジタル化する手段ではなく、データ駆動型の意思決定を可能にするためのインフラ投資である」という点です。
多くの自治体で、観光DXや行政DXが停滞する原因は、個別の「アプリ」や「ツール」導入で終わってしまい、それらのデータが相互に連携しないまま断絶してしまうことにあります。
豊岡市が実行したのは、最も基礎的で、最も非効率だった「公共施設のアクセス管理」という領域に、汎用性の高いクラウドソリューションを適用し、デジタルID基盤を構築したことです。
他の自治体も、まずは住民サービスや行政施設の管理といった、収益性は低いがコスト構造が重い領域から手を付け、デジタルIDとアクセスデータを取得する基盤を整備すべきです。この基盤があれば、将来的に観光MaaSや地域共通ポイント、防災・減災対応など、他の高付加価値なDX施策を展開する際の信頼性の高いデータソースと認証システムとして機能します。
人口減少という不可逆的な構造変化が進む中、自治体は「人手に頼らない公共サービスの維持」を最優先の課題とし、そのためにデータとテクノロジーを戦略的に活用することが求められています。


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