はじめに
日本の観光地が直面しているのは、単なる人手不足ではありません。それは、「観光客の意図をリアルタイムで把握できず、適切な提案ができないために、地域経済に落ちるはずの収益を逃している」という構造的な機会損失です。多くの自治体がDX(デジタルトランスフォーメーション)を掲げながらも、その実態が既存パンフレットのPDF化や、利用率の低い独自アプリの開発に留まっている中、2026年2月、群馬県安中市が開始した取り組みは、次世代の観光経営における一つの正解を提示しています。
本記事では、伊藤忠テクノソリューションズ(CTC)と安中市が共同で導入した「観光AIコンシェルジュ」を軸に、生成AIが単なる「便利な案内役」を超えて、いかに地域の意思決定プロセスを変革し、収益(ROI)をもたらすのかを深く掘り下げます。
群馬県安中市が挑む「観光AIコンシェルジュ」の実装
安中市が導入したのは、生成AI(大規模言語モデル)を活用した会話型の観光案内サービスです。この施策の背景には、同市の観光資源である「磯部温泉」や「鉄道文化むら」などの魅力を、24時間・多言語で、かつ個々のニーズに合わせて提供したいという切実な課題がありました。
(参照:CTC、生成AI活用の「観光AIコンシェルジュ」を群馬県安中市に提供開始 | マイナビニュース)
【導入されたソリューションの具体像】
このシステムの最大の特徴は、「ブラウザ型」である点です。旅行者は専用アプリをインストールする必要がなく、現地の二次元バーコードを読み取るだけで、すぐにAIとの会話を開始できます。主な機能は以下の通りです。
- パーソナライズされた周遊提案:会話を通じて旅行者の好み(家族連れ、鉄道ファン、グルメ重視など)を把握し、最適なコースを提示。
- リアルタイムの混雑状況・営業時間案内:人手不足で電話対応が困難な小規模店舗や施設の情報をカバー。
- 直接的な経済還元の仕組み:観光案内から「ふるさと納税」や地域ECサイトへの誘導を組み込み、その場での消費だけでなく、帰宅後のリピート購入も狙う。
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現場が抱える「属人化」と「機会損失」のジレンマ
多くの観光案内所は、夕方5時を過ぎれば閉まります。しかし、宿泊客や夜間に到着する旅行者の「明日どこへ行こうか」「近くで今開いている店は?」というニーズは、まさにその時間に発生します。従来の有人対応では、この「夜間の空白時間」がそのまま機会損失となっていました。
また、現場スタッフの「専門知」が属人化している点も課題です。ベテラン職員は、旅行者の服装や持ち物から好みを察し、ガイドブックに載っていない裏道を案内できますが、それを全てのスタッフや、ましてや多言語で再現することは不可能でした。安中市のAIコンシェルジュは、こうした「匠の知恵」をデータ化し、24時間稼働可能なデジタル資産へと転換しているのです。
運用現場のリアルな声に耳を傾ければ、地方の飲食店主からは「インバウンド客に来てほしいが、英語でメニューの説明をする余裕がない」という本音が聞こえてきます。AIが事前にメニューやストーリーを多言語で伝えておくことで、現場でのコミュニケーション摩擦が劇的に減り、接客の質が向上するという副次的なメリットも生まれます。
補助金活用と持続可能な収益モデルの設計
安中市の事例を含め、多くの自治体では「デジタル田園都市国家構想交付金」などの公的補助金を初期導入コストに充当しています。しかし、重要なのは「補助金でツールを入れて終わり」にしないことです。
このAIソリューションが画期的なのは、「観光消費のデジタルクロージング」を設計している点にあります。AIとの会話ログから「この層は〇〇という特産品に興味を示した」というデータが蓄積されれば、それを元に地域ECサイトでのリコメンドを最適化できます。また、観光案内中に「ふるさと納税の返礼品としてこの体験ができる」と提示することで、観光予算を単なる「経費」から、ふるさと納税による「税収」へと直接つなげるROI(投資対効果)の導線を構築しています。
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データが変える意思決定:勘頼みの観光振興からの脱却
このDX推進によって、地域の意思決定はどう変わるのでしょうか。これまでは、観光パンフレットが何枚手に取られたか、アンケート用紙に何が書かれたかという、不正確かつ断片的なデータで翌年の予算配分を決めていました。いわば「勘と経験」の経営です。
AIコンシェルジュが導入されると、「いつ、どこの国の人が、どのような言葉で悩んでいたか」という生の質問ログが1分1秒単位で蓄積されます。
「実は磯部温泉の宿泊客の3割が、徒歩圏内のカフェを探しているが、見つけられずに市外へ出ている」
「鉄道文化むらを訪れる層は、次に世界遺産の富岡製糸場へ行きたがっているが、二次交通の不備で諦めている」
といった具体的な課題が可視化されます。これにより、自治体は「どこにバスを増便すべきか」「どのエリアに新規出店を促すべきか」という、エビデンスに基づいた精度の高い投資判断が可能になります。
他の自治体が模倣すべき「摩擦ゼロ」の汎用性
安中市の事例から、他の自治体が学ぶべき汎用性の高いポイントは、以下の3点に集約されます。
1. 「アプリ不要」の徹底による利用障壁の除去
どれほど優れた機能でも、ダウンロードが必要な瞬間に利用率は激減します。ブラウザ型を採用し、QRコード一つでアクセスできる「摩擦ゼロ」の体験設計は、観光DXの鉄則です。
2. 「点」ではなく「線」でのデータ統合
案内だけで終わらせず、ふるさと納税やEC、宿泊予約へ繋げる設計。これにより、DXが「コスト」ではなく「稼ぐための投資」として地域経済に正当化されます。
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3. 生成AIによる「言語の壁」の解消
従来の定型文翻訳ではなく、文脈を理解する生成AIを用いることで、多言語対応のコストを最小化しつつ、インバウンド客に寄り添った案内が可能になります。これは、人的リソースが限られる小規模自治体ほど効果が高い戦略です。
おわりに
群馬県安中市の「観光AIコンシェルジュ」の実装は、2025年以降の地方自治体が目指すべきDXの標準モデルを示しています。テクノロジーは単なる効率化の道具ではありません。それは、現場のスタッフを単純作業から解放し、データという新しい武器を与えることで、地域全体を「データ駆動型の経営組織」へと進化させるエンジンです。
観光客がスマホをかざすその一瞬の行動を、地域経済の持続可能な収益へと転換できるか。その分岐点は、ツールを導入することそのものではなく、そこから得られるデータをいかに地域の未来を描くための「信用資産」として扱えるかにかかっています。


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