はじめに
2026年、日本が直面する観光の大きな課題の一つが「オーバーツーリズム」です。特に、古都鎌倉のような歴史的・文化的に価値の高い観光地では、訪れる人の増加が地域住民の生活環境、交通インフラ、自然環境に大きな負荷を与え、観光体験の質そのものを低下させるという構造的な問題が顕在化しています。このような状況下で、自治体やDMO(観光地域づくり法人)は、DX(デジタルトランスフォーメーション)を推進し、データを活用した持続可能な観光モデルの構築に注力しています。
その中でも、日本経済新聞が報じた「オーバーツーリズム対策、東京都が宿泊税見直し議論 鎌倉はデータ活用」という記事は、鎌倉市がデータ活用を通じて、この複雑な課題にどのように向き合っているかを示唆しています。日本経済新聞
本稿では、鎌倉市の事例を深掘りし、導入されたソリューションの具体的な機能、データ活用が地域の意思決定にどのような変革をもたらしたか、そして他の自治体が模倣できる汎用性の高いポイントについて、現場目線と収益・持続可能性の視点から分析します。
鎌倉市の挑戦:データで読み解くオーバーツーリズム対策
鎌倉市がオーバーツーリズム対策としてデータ活用に乗り出す背景には、長年にわたる深刻な課題がありました。特に、週末や長期休暇中のJR鎌倉駅周辺、鶴岡八幡宮、小町通り、江ノ電沿線といった主要観光スポットは、国内外からの観光客で常に飽和状態にあります。これにより、以下のような問題が発生していました。
- 地域住民の生活への影響:通勤・通学路の混雑、医療機関へのアクセス困難、生活道路への観光車両の流入、ゴミ問題、騒音など。
- 交通インフラの機能不全:江ノ電の満員状態による乗車困難、周辺道路の慢性的な渋滞、駐車場不足。
- 観光客満足度の低下:混雑によるストレス、人気の飲食店や施設の長時間待ち、ゆっくりと観光できない不満。
- 環境負荷の増大:観光客によるゴミのポイ捨て、自然環境への負荷。
これらの課題を解決するために、鎌倉市はデジタル技術とデータを戦略的に導入し、観光の「見える化」と「最適化」を目指しています。
導入されたソリューションの具体的な機能(推定)
日本経済新聞の記事からは具体的なソリューション名称が明示されていませんが、DMOや自治体によるDX推進の文脈において、鎌倉市が活用している可能性のある代表的なソリューションとその機能は以下の通りと考えられます。
- 人流データ分析・可視化プラットフォーム:
- 機能:スマートフォンから匿名化された位置情報(モバイル空間統計など)、交通系ICカードの利用履歴、Wi-Fiアクセスログ、SNS投稿データ、宿泊施設の予約データなどを統合的に収集・分析します。これにより、主要観光スポットや交通機関におけるリアルタイムの人流、観光客の属性(国籍、年齢層)、滞在時間、周遊ルートなどを可視化します。さらに、過去のデータや気象情報、イベント情報などと掛け合わせることで、数時間先から数日先の混雑状況をAIが予測します。
- 具体的な活用例:江ノ電の特定の駅における乗降客数のリアルタイム把握、小町通りの時間帯別混雑状況の数値化、外国人観光客の鎌倉市内の周遊ルート分析など。
- 観光客向けリアルタイム情報発信システム:
- 機能:上記の人流データ分析プラットフォームと連動し、主要観光スポットの現在の混雑状況や予測、公共交通機関の運行状況、代替ルート、比較的空いている観光地の情報などを、ウェブサイト、観光アプリ、デジタルサイネージ(駅や主要施設に設置)、SNSを通じて多言語で発信します。
- 具体的な活用例:混雑ピーク時に「〇〇通りは現在大変混雑しています。△△方面のルートもご検討ください」といったアラートを発信。あるいは、まだ知られていない隠れた名所への誘導を促す情報提供。
- オンライン事前予約・分散化システム:
- 機能:人気の寺社仏閣や飲食店、体験アクティビティ、駐車場などの事前予約をオンラインで一元的に管理し、時間帯別・人数別に予約を分散させるためのシステムです。予約状況に応じて、ダイナミックプライシング(変動料金制)を導入し、オフピーク時の利用を促進することも可能です。
- 具体的な活用例:特定の寺院の拝観時間をオンラインで予約制にし、入場者数をコントロール。駐車場も事前予約制にすることで、周辺道路の渋滞緩和を図る。
公的補助金や予算の活用状況(推定)
これらのDX推進には、多額の初期投資と運用コストがかかります。鎌倉市のような自治体がこうした取り組みを進める際には、国が推進する以下の補助金や交付金を活用している可能性が高いです。
- デジタル田園都市国家構想交付金:地方公共団体がデジタル技術を活用して地域の課題解決や魅力向上を図る取り組みを支援する制度です。オーバーツーリズム対策は「地域の課題解決」に直結するため、この交付金の主要な対象となりえます。
- 観光庁のDX推進事業費補助金:観光分野におけるDXを推進するための支援策として、DMOや観光事業者がデジタル技術を活用したサービス開発やデータ基盤構築を行う際に活用されます。
これらの補助金は、初期投資の負担を軽減し、自治体が先進的な技術導入に踏み切るための重要な財源となっています。
「データ活用」によって、地域の意思決定がどう変わったか
データ活用は、鎌倉市における観光行政の意思決定プロセスに質的な変化をもたらしました。従来の意思決定は、主に経験則、住民からの苦情、アンケート結果、観光事業者のヒアリングといった定性的かつ部分的な情報に基づいて行われることが多く、客観的な根拠に乏しい場合がありました。
しかし、DXソリューションによるデータ活用が進むことで、以下のような変化が生まれています。
- 客観的な根拠に基づく政策立案:
- 従来:「〇〇が混んでいる」という感覚的な認識に留まりがちでした。
- DX後:人流データにより、特定の観光スポットのどの時間帯に、どれくらいの人数が、どのような経路で訪れているか、そしてそのうちどのくらいの割合が外国人観光客であるかといった詳細な情報を数値として把握できるようになりました。これにより、「午前10時から午後3時の間、小町通りは平均滞在時間20分未満の短期滞在型観光客で特に混雑し、ピーク時には〇人/時の通行量を記録する」といった具体的なデータに基づいた課題認識と、それに対する混雑緩和策(例:時間帯別の入場制限、周辺への分散誘導、交通規制の実施時期の最適化)を検討できるようになります。
- 迅速かつ柔軟な対応能力の向上:
- 従来:問題が発生してから対策を検討・実施するまでに時間がかかり、その間に状況が悪化することも少なくありませんでした。
- DX後:リアルタイムの人流データをモニタリングすることで、混雑が予測される、あるいは既に発生している状況に対して、観光案内アプリでの情報発信、デジタルサイネージによる注意喚起、臨時シャトルバスの運行調整などを迅速に行うことが可能になりました。例えば、江ノ電が満員で次の列車を待つ必要がある場合、駅構内のデジタルサイネージでその旨を伝え、代わりにバスでの移動を促す、あるいは周辺のカフェで休憩を推奨するといったリアルタイムな誘導が可能になります。
- 新たな観光コンテンツ開発と地域経済への貢献:
- 従来:人気観光地に集中しがちなプロモーション。
- DX後:観光客の周遊ルートや滞在時間のデータを分析することで、これまであまり知られていなかった地域や時間帯の魅力的なスポットが浮き彫りになります。例えば、「大仏周辺の観光客は、その後裏路地にある歴史的な民家やギャラリーに関心を示す傾向がある」といったデータがあれば、そこを巡る新たなウォーキングツアーを開発したり、地域の小規模事業者との連携を強化したりするきっかけになります。これにより、観光客の消費を地域全体に分散させ、特定地域への過度な集中を避けつつ、地域経済全体の収益向上に寄与します。
- 住民と観光客の双方にとっての満足度向上:
- 従来:観光客誘致と住民生活のバランスが課題でした。
- DX後:住民の生活道路の混雑状況データや、観光客の移動データに基づいて、住民がストレスを感じるエリアや時間帯を特定し、観光客に迂回ルートを案内したり、特定時間帯の観光車両の乗り入れ制限を検討したりするなど、具体的な対策を講じることが可能になります。これにより、住民の生活の質を維持しつつ、観光客にも快適な観光体験を提供できるよう、持続可能な観光地の運営を目指すことができます。
このように、データ活用は鎌倉市がオーバーツーリズムという根深い課題に対し、客観的かつ効果的なアプローチで対応し、収益と持続可能性を両立させるための基盤を築いています。
あわせて読みたい:観光DXの未来図:データ活用で地域経済の収益と持続可能性を創出
他の自治体が模倣できる「汎用性の高いポイント」
鎌倉市の取り組みは、オーバーツーリズムに悩む他の多くの観光地や、デジタル活用を模索する自治体にとって、貴重な示唆に富んでいます。以下に、汎用性の高いポイントを挙げます。
- 1. スモールスタートと段階的な導入:
- ポイント:最初から大規模なシステムを構築するのではなく、特定の課題(例:特定の場所の混雑、特定の交通手段の混雑)に焦点を絞り、少額の投資でデータ収集・分析を開始することから始めるべきです。成功事例を積み重ねることで、関係者の理解と協力を得やすくなり、段階的に適用範囲を拡大できます。鎌倉市も、いきなり全市的なシステムを導入したわけではなく、まずは主要な観光エリアの課題に焦点を当ててデータ活用を進めたと推測されます。
- ROIと持続可能性:初期投資リスクを抑え、効果を早期に可視化することで、次の投資への正当性を示し、持続的なDX推進のモチベーションを維持できます。
- 2. 既存データの統合と連携:
- ポイント:自治体、DMO、交通事業者、宿泊施設、イベント主催者など、地域内の多様な主体がそれぞれ保有するデータを連携させ、統合的に分析する仕組みを構築することが重要です。個別最適化されたデータだけでは見えてこない全体の動向や因果関係が、データ連携によって明らかになります。例えば、交通系ICカードのデータと宿泊施設の稼働率データを組み合わせることで、観光客の移動パターンと滞在状況をより詳細に把握できます。
- ROIと持続可能性:新たなデータ収集システムへの投資を抑えつつ、既存データの価値を最大化します。データが多角的に連携されることで、より精度の高い予測や効果的な施策立案が可能となり、長期的な地域経済の最適化に繋がります。
- 3. 地域住民の参画と合意形成:
- ポイント:DXによる観光対策は、地域住民の生活に直接影響を与えるため、住民の理解と協力が不可欠です。データで明らかになった課題を住民と共有し、具体的な対策案について意見交換を行う場を設けることで、一方的な施策ではなく、地域全体で納得感のある解決策を導き出すことができます。住民のリアルな声と客観的なデータ双方を取り入れることが重要です。
- ROIと持続可能性:住民との摩擦を最小化し、観光地としての魅力を長期的に維持するために不可欠です。観光客からの収益を住民生活の改善に還元する仕組みも構築できれば、さらに良い循環が生まれます。
- 4. 明確なKPI(重要業績評価指標)設定と効果測定:
- ポイント:導入したDX施策が、オーバーツーリズムの緩和(例:特定エリアの混雑度〇%削減)、観光客満足度の向上(例:アンケート評価〇点向上)、地域経済への収益(例:平均滞在日数〇%増加、周遊エリア拡大による消費額〇%増加)にどの程度貢献したかを数値で評価するKPIを設定し、定期的に効果測定を行うことです。これにより、施策のPDCAサイクルを回し、継続的な改善を図ることができます。
- ROIと持続可能性:投資対効果を明確にし、予算配分の最適化を可能にします。効果の出ている施策は継続・強化し、そうでないものは見直すことで、リソースを効率的に活用し、持続的な観光振興に繋げます。
- 5. データを活用したプロモーション戦略の最適化:
- ポイント:収集したデータを基に、ターゲットとなる観光客層(例:平日来訪者、特定の文化に関心のある層)を特定し、その層に響くようなパーソナライズされた情報発信やプロモーションを行うことです。例えば、混雑する時期や時間帯を避け、比較的空いているオフピークシーズンや、周辺地域の魅力を積極的に発信することで、観光客の分散を促し、地域全体の収益機会を拡大できます。
- ROIと持続可能性:限定されたプロモーション予算を効果的に活用し、費用対効果の高い誘客を実現します。地域全体の魅力を高め、特定の観光スポットへの集中を避けることで、観光の持続可能性を高めます。
これらのポイントは、地域固有の特性や課題に合わせて柔軟に調整されるべきですが、データに基づいた意思決定というDXの本質は、あらゆる観光地に応用可能です。
まとめ
鎌倉市のオーバーツーリズム対策におけるデータ活用は、観光行政のパラダイムシフトを示唆しています。単に観光客数を増やすことだけを目的とするのではなく、地域住民の生活の質を維持しつつ、観光客に質の高い体験を提供するという、持続可能な観光の実現に向けた戦略的なアプローチです。
データに基づいた意思決定は、限られたリソースの中で最も効果的な施策を選択し、投資対効果(ROI)を最大化することを可能にします。リアルタイムの人流データ、観光客の行動パターン、地域住民の声といった多様な情報を統合・分析することで、これまで見過ごされがちだった課題の根源を特定し、迅速かつ柔軟な対応が可能となります。これにより、混雑緩和による観光客満足度の向上、新たな周遊ルート開発による地域経済への貢献、そして住民との共存といった好循環を生み出します。
2026年、そしてそれ以降も、日本の多くの観光地がオーバーツーリズムという課題に直面し続けるでしょう。鎌倉市の事例が示すように、DXとデータ活用は、この課題を克服し、観光地が収益性と持続可能性を両立させながら発展していくための、不可欠な羅針盤となります。他の自治体やDMOがこの取り組みから学び、それぞれの地域に合った形で実践していくことが、日本の観光全体の健全な未来を築く鍵となるでしょう。


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