はじめに
2025年現在、日本各地で観光客の増加に伴う「オーバーツーリズム」が深刻な課題となっています。特に都市部や人気観光地では、交通機関の混雑、宿泊施設や飲食店への需要集中、そして地域住民の生活環境への影響が顕著です。こうした課題に対し、自治体やDMO(観光地域づくり法人)は、従来の感覚的な対策から脱却し、デジタル技術を活用したDX推進やスマートシティ計画、デジタル田園都市構想といった取り組みを加速させています。
本記事では、日本経済新聞が報じた「オーバーツーリズム対策、東京都が宿泊税見直し議論 鎌倉はデータ活用」というニュースを基軸に、自治体によるデータ活用の具体的な事例と、それが地域の意思決定にどのような変革をもたらしているのかを深掘りします。特に、他の自治体が模倣できる汎用性の高いポイントと、それが地域経済の収益性や持続可能性にどう貢献するかに焦点を当てて解説します。
オーバーツーリズム対策の最前線:東京都の宿泊税議論と鎌倉のデータ活用
「オーバーツーリズム」は、日本が観光立国を目指す上で避けては通れない課題です。この問題へのアプローチは、地域によって多岐にわたります。日本経済新聞が報じた記事は、その典型的な二つの方向性を示しています。
記事によれば、東京都は宿泊税の課税対象や税率の見直しを議論しています。これは、高騰する宿泊需要からより多くの税収を得るとともに、価格メカニズムを通じて観光客の流れを一定程度抑制しようとする、直接的な介入策と言えるでしょう。大都市圏が抱える広範なインフラ維持費用やサービス提供コストを考えると、宿泊税による財源確保は合理的な選択肢の一つです。
一方で、同記事では、歴史的観光地として著名な鎌倉市がデータ活用によってオーバーツーリズム対策を進めていることに触れています。鎌倉市のアプローチは、単に観光客数を抑制するだけでなく、観光客と住民双方にとってより良い観光体験と生活環境を両立させる「持続可能な観光」を目指すものです。歴史的景観や文化財が密集し、住宅地と観光地が密接に連携する鎌倉では、税による一律な抑制よりも、きめ細やかな情報提供と分散誘導が求められます。ここでは、データがその意思決定の根幹を担っているのです。
鎌倉市が導入する具体的なデータ活用ソリューションとその機能
鎌倉市がオーバーツーリズム対策で注力しているのは、主に観光客の行動データに基づいた情報提供と、それによる分散誘導です。具体的なソリューションとしては、以下のような取り組みが進められています。
混雑状況可視化システム「鎌倉混雑度マップ」
鎌倉市は、主要な観光スポットや駅周辺の混雑状況をリアルタイムで把握し、観光客に提供するための「鎌倉混雑度マップ」といったシステムを導入しています。これは、携帯電話の位置情報データ(人流データ)、公共交通機関の乗降データ、さらには一部の観光施設に設置されたセンサーデータなどを集約・分析することで、現在の混雑状況を「空いている」「やや混雑」「混雑」「非常に混雑」といった段階で可視化するものです。
- 機能: Webサイトやスマートフォンアプリ、市内のデジタルサイネージを通じて、主要箇所の混雑状況をマップ上に表示します。これにより、観光客は自身の現在地から混雑を避けたルートや時間帯を選択できるようになります。
- データソース: 民間通信事業者から提供される同意取得済みの位置情報ビッグデータが核となります。これに加えて、交通系ICカードの利用履歴データ、公衆Wi-Fiの接続データ、さらには観光施設や商店街に設置された人感センサーやカメラによるデータも活用されるケースがあります。
- 目的: 観光客のピーク時間帯や集中エリアを避け、市内の他の魅力的なスポットへ分散誘導することで、特定の場所への過度な集中を緩和します。また、観光客自身の満足度向上にも寄与します。
観光消費行動分析プラットフォーム
鎌倉市DMOは、観光客の消費行動や周遊パターンを深く理解するため、多様なデータを統合的に分析するプラットフォームの構築を進めています。
- 機能: クレジットカード決済データ、電子マネー利用データ、地域内でのPOSデータ、オンライン予約データなどを匿名加工した上で集約。観光客の属性(国籍、年齢層)、滞在期間、消費傾向、特定の施設や地域での消費額などを詳細に分析します。
- データソース: 金融機関、決済サービス事業者、宿泊予約サイト、地域の協力店などから提供されるデータが中心です。
- 目的: データに基づき、観光客が「いつ、どこで、何を、どれくらい」消費しているかを把握します。これにより、新たな観光商品の開発、効果的なプロモーション戦略の立案、混雑緩和に資する周遊ルートの提案、さらには特定の時間帯やエリアでのイベント開催の最適化などが可能になります。
公的補助金や予算の活用状況
これらのDX推進には、国の政策が大きな後押しとなっています。鎌倉市のような取り組みは、デジタル庁が推進する「デジタル田園都市国家構想交付金」や、観光庁の「観光地・観光産業DX推進事業費補助金」といった公的補助金を活用しているケースが多く見られます。これらの補助金は、地域が抱える課題に対しデジタル技術で解決策を講じるためのシステム導入費用や実証実験費用、専門人材の育成費用などを支援することを目的としています。鎌倉市も、これらの制度を活用し、先進的な取り組みを推進していると考えられます。
「データ活用」が地域の意思決定をどう変えたか
データ活用は、自治体やDMOの意思決定プロセスに質的な変革をもたらしています。
現場業務の変化
これまで、観光案内所のスタッフや地域の観光関係者は、自身の経験や勘、あるいは断片的な情報に基づいて観光客にアドバイスをしていました。しかし、データ活用によって、以下のような具体的な変化が生まれています。
- より精度の高い情報提供: 「鎌倉混雑度マップ」のようなツールにより、観光案内所のスタッフは「〇時頃は鶴岡八幡宮が混み合いますが、報国寺は比較的空いていますよ」「今の時間なら江ノ電の混雑を避けて、バスで移動する方がスムーズです」といった、リアルタイムで具体的な混雑回避ルートや、隠れた名所の情報を観光客に提供できるようになりました。これにより、観光客の満足度向上に直結しています。
- オペレーションの最適化: 宿泊施設の清掃スタッフや飲食店の仕入れ担当者も、データに基づいて翌日の来客数予測や食材の準備量を調整しやすくなります。これにより、無駄を削減し、効率的な運営が可能になります。
また、こうしたデータは、地域のイベント企画者にとっても重要な指針となります。観光客が集中しない時間帯や、これまで足を運んでいなかったエリアでイベントを企画することで、地域全体の活性化に繋がるのです。
行政の意思決定の変化
データ活用は、よりマクロな行政の意思決定にも大きな影響を与えています。
- オーバーツーリズム対策の科学化: 従来のオーバーツーリズム対策は、「人が増えているようだ」という感覚や、住民からのクレームといった定性的な情報に依拠しがちでした。しかし、データ活用によって「〇月△日の特定の時間帯に、××エリアの観光客数が過去最高の◇◇人に達した」「観光客の約70%が特定のルートに集中している」といった客観的な事実に基づいて施策を検討できるようになりました。これにより、根拠に基づいた具体的な交通誘導システムの導入、二次交通の増強、臨時シャトルバスの運行、あるいは観光客向けのマナー啓発キャンペーンの展開など、施策の優先順位付けや効果測定が飛躍的に向上しています。
- 財源の最適化と戦略的投資: 観光客の消費行動データは、どこにどのような投資をすれば地域経済へのリターン(ROI)が最大化されるかを行政が判断する上で不可欠です。例えば、特定のエリアでの消費が伸び悩んでいる場合、その原因をデータから分析し、プロモーションを強化したり、新たな魅力を創出するための事業に予算を配分したりといった戦略的な投資判断が可能になります。
- 住民との対話の変化: データは、観光客と住民の摩擦解消にも貢献します。住民説明会などで「これだけの観光客が来訪し、これだけの経済効果がある一方で、このエリアではこれだけの混雑が発生している。このデータに基づいて、このような対策を講じる」と示すことで、感情的な対立ではなく、客観的な事実に基づいた対話と合意形成が促進されます。これは、観光の持続可能性を確保する上で極めて重要です。あわせて読みたい:住民との摩擦解消DX:観光立国が目指す、収益と持続可能な未来
他の自治体が模倣できる「汎用性の高いポイント」
鎌倉市の事例は、多くの自治体にとって実践可能な示唆に富んでいます。特に以下の点は、地域規模や特性を問わず汎用性が高いと言えます。
- スモールスタートと段階的拡大: 最初から完璧な大規模システムを目指すのではなく、既存のデータソースや比較的安価なツールを活用できる範囲から始めることが重要です。例えば、まずはWebサイトでの混雑状況の簡易表示から始め、効果を見ながら位置情報サービスやAI分析を導入するなど、段階的にソリューションを拡大していくアプローチです。これは、初期投資のリスクを抑え、成功体験を積み重ねる上で有効です。
- 既存インフラとの連携: 新たな設備投資を最小限に抑えるため、既存のインフラ(携帯電話の基地局、公共交通機関の乗降システム、地域Wi-Fiネットワーク、SNS投稿データなど)から得られるデータを最大限に活用することが鍵です。データの取得元となる民間企業との連携が不可欠となります。
- 官民連携によるデータ共有とプラットフォーム構築: 自治体やDMOがデータ活用のハブとなり、交通事業者、宿泊施設、飲食店、商業施設など、多様な地域のステークホルダーからのデータ提供を促し、相互利用可能なプラットフォームを構築することが重要です。これにより、地域全体の情報流通が活性化し、より多角的な分析と施策立案が可能になります。
- 情報の「可視化」と「発信」の徹底: 収集・分析したデータは、専門家だけでなく、地域住民や観光客も直感的に理解できる形で可視化し、適切なチャネル(ウェブサイト、アプリ、デジタルサイネージ、SNSなど)でタイムリーに発信することが重要です。情報を届ける対象が誰かを意識したUI/UX設計が求められます。
- 地域課題の明確化と技術的解決策のマッピング: 各地域固有のオーバーツーリズム課題(特定の時間帯の駅の混雑、特定の観光地への集中、宿泊客と日帰り客の比率など)を具体的に特定し、それに対応するデータ活用ソリューションを導入することが肝要です。技術は目的ではなく、あくまで課題解決の手段であることを忘れてはなりません。
日本の他地域への適用可能性と課題
鎌倉市のデータ活用事例は、日本全国の観光地に大きな示唆を与えます。
メリット
- 混雑緩和と分散化: 京都市、富士山周辺、沖縄、北海道のニセコ地域など、観光客が集中しがちな多くの観光地で、オーバーツーリズム対策として非常に有効です。ピーク時の集中を避けることで、観光客の体験価値を向上させ、住民の生活環境を守ることができます。
- 新たな魅力の発見と発信: 混雑データや人流データを活用することで、これまで観光客に知られていなかった地域資源や隠れた名所への誘導が可能になります。これにより、観光客の周遊ルートが多様化し、地域全体の魅力向上と消費拡大につながります。
- 地域経済の底上げ: 観光客の分散誘導は、これまで恩恵を受けにくかった周辺エリアの店舗や施設にも経済的な機会をもたらします。これにより、観光収益が地域全体に波及し、地域経済の持続的な成長を促します。
データ活用は、単なる「不便」の解消にとどまらず、観光客の滞在期間延長や消費額増加を促し、地域経済に具体的な収益(ROI)をもたらします。例えば、特定エリアへの回遊をデータに基づいて促し、滞在時間を延ばすことで、ランチやカフェ、土産物店での消費機会を増やせるでしょう。また、混雑緩和による住民満足度の向上は、観光の持続可能性(サステナビリティ)を高め、観光地のブランド価値を長期的に維持する上で不可欠です。
デメリット・課題
- プライバシー保護への配慮: 位置情報や消費行動データなどの活用には、個人情報保護法や倫理的側面からの慎重な対応が求められます。データの匿名加工、利用目的の明確化、住民や観光客への透明性確保と丁寧な説明が不可欠です。特に日本においては、欧米諸国と比較してプライバシーへの意識がより繊細な場合があり、十分な配慮が必要です。
- データ連携の技術的・制度的障壁: 複数の事業者や行政機関にまたがるデータの収集と連携には、標準化されたデータ形式、APIの整備、そして関係者間の合意形成と信頼関係の構築が必要です。特に、異なるシステム間のデータ連携には技術的なハードルが存在し、また事業者側がデータ提供に消極的なケースもあります。
- 予算と人材の確保: データ分析基盤の構築や運用、専門人材の育成には、初期投資と継続的なコスト、そしてデータサイエンティストやIT技術といった専門知識を持った人材の確保が不可欠です。特に地方自治体では、予算や人材不足が大きな課題となりがちです。外部の専門家や企業の力を借りることも視野に入れるべきでしょう。
- データリテラシーの向上: データを活用する側である自治体職員や観光事業者のデータ分析能力、そしてデータに基づいた施策立案能力の向上が求められます。単にデータを見るだけでなく、そこから意味を読み解き、具体的な行動へと繋げるスキルが不可欠です。
まとめ
オーバーツーリズム問題は、観光立国を目指す日本が直面する大きな試練です。東京都が宿泊税の見直しを議論する一方で、鎌倉市がデータ活用によって混雑緩和と観光客分散を図る事例は、自治体がDXを通じて地域課題の解決に挑む現実的なアプローチを示しています。データ活用は、単に「不便」を解消するだけでなく、地域経済に具体的な収益(ROI)をもたらし、観光の持続可能性(サステナビリティ)を確保するための不可欠な要素です。
鎌倉市の事例に見る「スモールスタートと段階的拡大」「既存インフラとの連携」「官民連携によるデータ共有」「情報の可視化と発信」といった汎用性の高いポイントは、予算やリソースが限られる他の多くの自治体にとっても、実践可能なロードマップとなるでしょう。もちろん、プライバシー保護やデータ連携の障壁、人材確保といった課題は存在しますが、これらを乗り越え、データに基づいた合理的な意思決定を進めることが、未来の観光と地域経済を形作る上で不可欠です。
感情論や場当たり的な対策ではなく、客観的なデータに裏打ちされた戦略こそが、観光客、地域住民、そして事業者全員にとってWin-Winの関係を築き、日本の観光をより強固で持続可能なものに変革する力となるでしょう。


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