はじめに
地方における移動の課題は、観光客の利便性を損なうだけでなく、地域住民の日常生活をも大きく制約する深刻な問題です。特に、主要な交通拠点から目的地までの「ラストワンマイル」は、多くの観光地で長年の懸案となっており、これが地域の観光ポテンシャルを十分に引き出せない一因となっています。さらに、過疎化や高齢化が進む地域では、公共交通網の維持自体が困難になり、住民の生活の足が失われるという事態も発生しています。
このような状況に対し、近年、観光MaaS(Mobility as a Service)、自動運転、ライドシェア、そして電動モビリティ(電動キックボードなど)といった新たな移動手段への期待が高まっています。これらの技術やサービスは、単に移動の利便性を高めるだけでなく、地域の経済に新たな収益をもたらし、持続可能な社会の実現に貢献する可能性を秘めています。
本稿では、こうした新たなモビリティサービスが「ラストワンマイル」の課題をどのように解決し、観光客と地域住民双方にとって持続可能な移動インフラを構築していくのか、そして、規制緩和や法改正との関連性、移動データが観光マーケティングにどう還元されるのかについて、具体的な海外事例を交えながら深く掘り下げていきます。
イリノイ州ケイン郡の挑戦:ダイヤル・ア・ライドが拓く移動の未来
地域における移動の課題解決に向けた具体的な取り組みとして、アメリカ・イリノイ州ケイン郡の「Ride in Kane」というダイヤル・ア・ライド(オンデマンド交通)システムの事例に注目します。これは、Chicago Tribuneが2026年1月4日に報じた記事「Kane County modifying its dial-a-ride system, hoping to streamline process and expand access」で紹介されています。
ケイン郡の「Ride in Kane」とは
「Ride in Kane」は、ケイン郡が2008年から運営している公共準公共交通サービスで、主に65歳以上の高齢者、障害を持つ人々、そして退役軍人を対象としています。このシステムは、利用者が事前に電話やオンラインで予約することで、自宅の玄関先から目的地まで、バスやタクシーのような車両が迎えに来てくれる「カーブ・トゥ・カーブ」サービスを提供します。特筆すべきは、24時間365日運行されており、利用者のニーズに柔軟に対応しようとしている点です。料金は最初の10マイルが5ドル、それ以降は1マイルあたり2ドルで、退役軍人は無料で利用できます。現在、約1万人の登録者がおり、毎月約5,000回の移動を提供し、平均して月間44人の新規登録者が増えていると報じられています。
記事によれば、2026年1月1日からは、登録プロセスを近郊バスサービス「Pace」に直接統合し、郡は利用者へのカスタマーサービスとサポートに注力する形に運営体制が変更されました。この変更は、プログラムの管理を効率化し、郡内のすべての適格な住民がサービスに平等にアクセスできるようにすることを目的としています。
ラストワンマイル課題への解決策としての機能
ケイン郡のような郊外や地方では、公共交通機関の路線が限定的であるか、全く存在しない地域も少なくありません。このような環境において、個人の自宅から最寄りの公共交通機関の停留所まで、あるいは主要な生活拠点(病院、スーパーマーケットなど)まで移動する「ラストワンマイル」は、特に高齢者や移動に制約のある人々にとって大きな障壁となります。「Ride in Kane」のようなダイヤル・ア・ライドシステムは、まさにこの課題を解決するための直接的な手段です。
利用者は、決められたバス停まで歩く必要がなく、自宅から直接車両に乗り込めるため、身体的な負担が大幅に軽減されます。また、24時間365日という運行体制は、地域の多様な生活ニーズ、例えば深夜の医療機関へのアクセスなどにも対応できる柔軟性を持っています。これは、地域に暮らす人々が安心して生活を送る上で不可欠なインフラであり、過疎化や高齢化が進む日本の地方都市が直面する移動課題に対する有効な示唆を与えています。
観光客と地域住民の持続可能な移動:ケイン郡事例から学ぶ
ケイン郡のダイヤル・ア・ライド事例は、地域住民の生活の足としての持続可能性に深く貢献していますが、このようなサービスは観光客の移動課題解決にも応用可能です。
住民の生活の足としての価値と持続可能性
「Ride in Kane」は、自家用車の運転が困難な高齢者、移動手段が限られる障害者、そして重要な公共サービスである退役軍人向け医療施設へのアクセスを提供するなど、地域の社会基盤として極めて重要な役割を担っています。このような公共性の高いサービスは、採算性だけを追求する民間企業では維持が難しい場合が多く、行政が主導し、既存の公共交通機関(Pace)と連携することで、長期的な持続可能性を確保しようとしています。これは、人口減少や財政難に直面する日本の地方自治体が、地域住民のウェルビーイングを維持しつつ、移動の公平性を確保するためのモデルケースとなり得ます。
日本の地域への適用可能性と課題
ケイン郡の事例を日本の地域に適用する場合、多くのメリットと同時にいくつかのデメリットも考慮する必要があります。
メリット:
- 過疎地域の移動課題解決:日本の多くの地方都市や農山漁村では、公共交通網の衰退が著しく、特に高齢者の「買い物難民」「通院難民」が深刻化しています。ダイヤル・ア・ライドのようなオンデマンド交通は、こうした地域の住民にとって、生活の質を維持するための生命線となり得ます。
- 公共サービスの強化:福祉施設、病院、役場などへのアクセスを確保することで、行政サービスの恩恵をより多くの住民が享受できるようになります。
- 観光客のラストワンマイル解消:地域住民向けのシステムを観光客向けにも拡張することで、主要な駅から離れた隠れた観光名所や、公共交通機関ではアクセスしにくい自然景観などへの移動を容易にします。これにより、観光客の満足度向上と地域内消費の拡大が期待できます。
- ドライバー不足対策:自動運転技術の進化は、将来的にドライバー不足問題の解決に貢献する可能性を秘めています。現状ではドライバーが介在するサービスでも、AIを活用した効率的な配車システムは、限られたリソースでより多くの移動需要に対応できるようになります。
デメリット:
- 初期投資と運営コスト:車両の導入、システム開発、人員配置など、初期投資と継続的な運営コストは自治体にとって大きな負担となります。特に、日本の地方自治体の財政状況を考えると、国や県の補助、民間企業との連携が不可欠です。
- 住民の認知度向上と利用促進:新しいサービスを導入しても、住民にその存在が認知され、利用が定着するまでには時間がかかります。特にデジタルリテラシーが高くない高齢者層への丁寧な周知とサポートが求められます。
- 地域の特性への適合:地域の地理的条件(山間部、海岸部など)、人口密度、既存の交通インフラ、住民のニーズは多様です。ケイン郡のモデルをそのまま導入するのではなく、それぞれの地域に合わせたカスタマイズが必要です。
- 既存交通事業者との調整:タクシー事業者やバス事業者など、既存の交通事業者との調整は慎重に行う必要があります。サービスの重複や競合を避け、地域全体の交通網の最適化を目指す協力体制が求められます。
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規制緩和と法改正の重要性:進化するモビリティと法制度
観光MaaS、自動運転、ライドシェア、電動モビリティといった新しい移動サービスを社会に定着させ、その恩恵を最大化するためには、既存の法制度や規制との調和が不可欠です。
ライドシェア解禁とオンデマンド交通の動向
ケイン郡のダイヤル・ア・ライドは、公共サービスとして運営されており、Paceのような既存の公共交通機関と連携することで、法的な枠組みの中でサービスを提供しています。これは、新たな移動サービスを導入する際の一つのアプローチとして参考になります。
日本では、これまでタクシー事業者の規制が厳しく、いわゆる「白タク」行為は禁止されていました。しかし、特に地方における移動手段の不足が深刻化する中で、2024年4月には、タクシー事業者の管理の下で自家用車を活用したライドシェア(自家用有償旅客運送)が、一部地域・時間帯で解禁されました。これは、地域住民の生活の足の確保と観光客の利便性向上を目的とした大きな一歩です。
ただし、現在のライドシェア制度は限定的であり、今後、より広範な地域や時間帯での運用、そしてドライバーの確保、安全性、保険制度、利用者からのフィードバック反映など、多様な課題をクリアしながら、さらなる制度設計の見直しが求められるでしょう。
自動運転と電動モビリティを取り巻く法規制
自動運転車に関しては、レベル3(条件付き自動運転)の運行が一部で可能になりつつありますが、レベル4(特定条件下での完全自動運転)の実用化に向けては、車両の安全性評価基準、事故発生時の責任の所在、インフラ整備、そして社会受容性など、多くの法整備と技術的課題が残されています。特に、公道での自動運転サービスを観光や住民の移動に活用するには、地方自治体や警察との連携による実証実験の積み重ねが不可欠です。
電動キックボードや電動アシスト自転車などの電動モビリティについては、2023年7月の道路交通法改正により、特定小型原動機付自転車として新たな交通ルールが適用されました。これにより、一定の条件下で運転免許不要となり、ヘルメット着用も努力義務化されるなど、利用のハードルが下がりました。これにより、観光地での手軽な移動手段としての普及が期待されていますが、一方で、歩行者との接触事故や駐輪問題など、安全管理と利用者モラルの向上が課題となっています。観光行政としては、利用者の安全確保と地域住民との共存を図りながら、利便性を高めるための適切なルールの運用と啓発活動が重要になります。
これらの規制緩和や法改正は、新しいモビリティサービスが地域経済に収益(ROI)をもたらし、持続可能性(サステナビリティ)を確保するための基盤となります。柔軟かつ現実的な法整備が、技術革新を社会実装へと繋ぎ、地域社会に恩恵をもたらす鍵となるでしょう。
移動データが切り開く観光マーケティングの新境地
観光MaaS、自動運転、ライドシェア、電動モビリティといった次世代の移動サービスは、単に移動手段を提供するだけでなく、その運行を通じて膨大な「移動データ」を生成します。このデータは、地域の観光マーケティングや地域振興にとって、計り知れない価値を持つ宝の山となります。
オンデマンド交通から得られる移動データの種類
ケイン郡のダイヤル・ア・ライドのようなオンデマンド交通システムから得られるデータは多岐にわたります。
- 利用者の属性:年齢層、居住地域、障害の有無、登録理由など(個人情報保護に配慮した上での統計データ)。
- 乗降場所データ:どの地点から乗り、どの地点で降りたか。特定の施設(病院、商業施設、観光スポット)への集中度。
- 時間帯データ:いつ利用されやすいか(朝の通勤・通学時間、昼間の買い物、夕方の帰宅時間、観光ピーク時)。
- 移動経路データ:最短ルート、迂回ルート、特定の道路の利用頻度。
- 利用目的データ:通院、買い物、観光、通勤など。
これらのデータは、匿名化・統計化されることで、地域の移動実態を正確に把握するための貴重な情報源となります。
観光マーケティングへの応用
移動データの分析は、観光客の行動パターンやニーズを深く理解し、より効果的な観光戦略を策定するために不可欠です。
- 潜在的観光スポットの発見とアクセス改善:観光客が特定の場所でオンデマンド車両を待つ頻度や、公共交通機関の終点からさらに移動しようとする傾向が見られれば、その先に未開拓の観光資源やアクセスしにくい魅力的なスポットが存在する可能性を示唆します。データに基づいて、新たな周遊ルートの開発や、そこへの移動手段の最適化(例:小型車両の導入、専用シャトルの運行)を検討できます。
- 需要予測と混雑回避:特定の時間帯や観光地での移動需要のピークを予測し、車両の適切な配置や運行本数の調整を行うことで、待ち時間の短縮や混雑緩和に貢献します。これにより、観光客のストレスを軽減し、満足度を高めることができます。また、混雑情報をリアルタイムで発信し、分散を促すダイナミックプライシングやインセンティブ提供も可能になります。
- パーソナライズされた観光体験の提供:移動データと他の観光関連データ(宿泊データ、飲食データ、SNS投稿データなど)を組み合わせることで、観光客一人ひとりの興味や好みに合わせた移動プランや観光ルートを提案できます。例えば、自然愛好家には秘境へのアクセスを、歴史好きには文化財巡りの効率的な移動手段を提供するなど、より質の高いパーソナライズされた体験を創出できます。
- 地域経済への貢献とROI:移動データの分析を通じて、観光客が立ち寄る場所や消費する傾向を把握することで、地域の小売店、飲食店、宿泊施設などと連携した効果的なプロモーション戦略を立案できます。例えば、特定の観光ルートを周遊した観光客に限定クーポンを配布するなど、移動を起点とした地域内消費の拡大を図ることで、直接的な収益(ROI)向上に繋げられます。
地域全体でのデータ連携の重要性
移動データの真価は、それが地域全体のMaaSプラットフォームや観光DXの基盤と連携することで発揮されます。交通事業者だけでなく、観光協会、宿泊施設、地元店舗、自治体などがデータを共有・連携し、共通のプラットフォーム上で分析・活用することで、地域全体の移動の最適化、観光客誘致の効率化、そして住民の利便性向上という相乗効果を生み出します。
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データに基づいた意思決定は、限られたリソースの中で最も効果的な投資を可能にし、地域経済の持続的な成長を促進します。これは、単なる「便利なツールの紹介」に留まらず、それが地域経済にどのような収益(ROI)や持続可能性(サステナビリティ)をもたらすかという視点を実現するための核心的な要素となります。
まとめ
観光MaaS、自動運転、ライドシェア、電動モビリティといった次世代の移動サービスは、地方が抱える「ラストワンマイル」という長年の課題に対し、画期的な解決策を提示しています。アメリカ・イリノイ州ケイン郡のダイヤル・ア・ライドシステム「Ride in Kane」の事例は、こうしたオンデマンド交通が、高齢者や障害者、退役軍人といった地域住民の生活の足として、いかに重要な役割を担い、持続可能な社会インフラとして機能し得るかを示しています。
これらの新しいモビリティは、観光客の利便性を飛躍的に向上させ、これまでアクセス困難だった地域の魅力を引き出すことで、観光消費の拡大と地域経済の活性化に貢献します。同時に、地域住民の移動の自由を確保し、生活の質を向上させることで、観光と住民生活の調和という持続可能性(サステナビリティ)を実現する鍵となります。
日本においても、ライドシェアの解禁や電動モビリティに関する法改正が進む中、これらの技術やサービスを社会に実装し、その恩恵を最大化するためには、柔軟な規制緩和と継続的な法整備が不可欠です。また、運行によって得られる移動データは、観光客の行動分析や需要予測、そしてパーソナライズされた観光体験の提供に活用され、データに基づいた効率的なマーケティング戦略により、地域経済に具体的な収益(ROI)をもたらすでしょう。
これからの観光行政や地域振興においては、単に「ツール」を導入するのではなく、それが地域社会全体にどのような価値を生み出し、長期的な視点で収益(ROI)と持続可能性(サステナビリティ)をいかに両立させるかを深く考察し、実践していくことが求められます。多様なステークホルダーが連携し、データを最大限に活用しながら、移動の未来を共創していく時代が到来しています。


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