はじめに
自治体やDMOが推進するDX(デジタルトランスフォーメーション)は、単に紙をデジタルに置き換えたり、Webサイトを整備したりする段階を終え、いよいよ「データ駆動型の意思決定」によって地域経済の構造そのものを変革するフェーズに入っています。特に地方の観光地では、インバウンド増加の波を受けながらも、その収益を地域全体に広く浸透させ、持続可能性を確保するための具体的な戦略が求められています。
本稿では、観光資源に恵まれながらもアクセスや二次交通に課題を抱える「秘境」地域において、データ活用がどのように地域事業者の大胆な投資判断を促し、新たな収益モデルを確立したかを、徳島県三好市祖谷渓(いやけい)の事例を通じて深く分析します。
秘境「祖谷渓」が直面した構造的課題
徳島県三好市に位置する祖谷渓は、日本三大秘境の一つに数えられ、かずら橋などの文化的・自然的な魅力に溢れています。近年、インバウンド観光客からの注目度も高まっていますが、この地域が持つ地理的な特性が、従来の観光施策の大きな障壁となっていました。
- アクセス難:公共交通機関が非常に限られており、レンタカー利用が前提となる。
- ラストワンマイルの課題:主要な観光地間の移動が困難で、滞在時間が伸びにくい。
- 収益機会の限定:観光客の行動範囲が特定のスポットに集中し、地域全体の消費に繋がりにくい。
これらの課題は、観光客にとっては「不便」として体験価値を損ない、地域住民にとっては「観光客が増えても自分たちの生活の豊かさ(収益)に繋がらない」という構造的なジレンマを生んでいました。従来の観光協会や自治体主導の施策だけでは、このジレンマを解決するのは困難でした。
データが示した「隠れたニーズ」:59.1%の衝撃
こうした状況下で、祖谷渓地域においてデータ活用による革新的な取り組みが進められました。この事例の核心は、地域経済の担い手がDMOや自治体ではなく、地元の建設会社であった点にあります。この建設会社(株式会社佐々木工業)は、観光事業に参入する際の意思決定の基盤として、観光データを徹底的に活用しました。
同社が着目したのは、ある具体的なデータです。それは、特定の調査データにおいて、祖谷渓を訪れた旅行者が「滞在時間を伸ばせなかった理由」として、「地域内の移動手段やアクセス方法が不足しているため」と回答した割合が「59.1%」に達したという分析結果でした。(引用元:PR TIMES 2026年1月発表 「インバウンド観光客増加で賑わう日本三大秘境徳島県『祖谷渓』で、新しい観光スタイル実現に挑戦する地元建設会社代表の背中を押したのは『59,1%』の観光データ。」より)
導入されたソリューションとデータ活用の機能
このデータは、特定のソリューション名が付いた大々的なシステムから得られたものではありませんが、その機能の本質は「未充足ニーズの可視化」にあります。具体的には、既存の観光客(特にインバウンド)の満足度調査や移動ログ、購買データを組み合わせて分析することで、「不便」がどの程度収益機会の逸失に繋がっているかを数値化しました。
データ活用の機能:
- ニーズ特定:「秘境」という特性がもたらす観光移動のストレスが、観光客の「体験価値」と「地域内消費」の双方を阻害していることを特定。
- 市場規模の推定:59.1%という具体的な数字に基づき、この移動の不便を解消した場合に、どれだけの滞在日数延長や消費増加が見込めるかを推定。
- 投資判断の根拠:建設業という本業を持つ企業が、リスクを負って観光・サービス業に参入する際の、説得力のあるROI(投資収益率)の根拠を提示。
この「59.1%」は、単なる統計ではなく、地域内の移動インフラに対する需要が極めて高いことを示す「未開拓の収益市場の指標」として機能したのです。
「データ主導」で変わった地域の意思決定
このデータ分析の結果、地域の意思決定は劇的に変化しました。最大の変化は、従来の行政頼みではなく、民間企業が主導権を握った事業投資です。
佐々木工業は、この移動課題を解決するため、特定のエリアに特化した観光施設を新設する投資を決定しました。これは、単なる宿泊施設や飲食店の新設に留まらず、「秘境における移動体験の提供」を核とする新しい観光スタイルへの転換を意味します。
意思決定の変化:
| 項目 | データ活用前(伝統的アプローチ) | データ活用後(DXアプローチ) |
|---|---|---|
| 課題認識 | 自然が素晴らしいから観光客は来るはず | 移動の不便さが収益の機会損失になっている(59.1%) |
| 意思決定者 | DMO、観光協会、行政 | 地域経済に深く根差す民間事業者(建設会社) |
| 事業焦点 | スポット施設の整備、プロモーション | 移動課題の解消を通じた滞在の深掘りと地域内経済循環の創出 |
| 投資判断の根拠 | 地域の魅力やポテンシャル(曖昧) | 移動不便解消による具体的な収益増の試算(具体的数値) |
このケースでは、特定の公的補助金や予算が主要な推進力であったという情報は公開されていませんが、こうしたデータ主導の明確な収益予測は、デジタル田園都市国家構想交付金や地域振興関連の補助金(例えば、地方創生関連事業費)の申請においても、計画の具体性と実現可能性を高める決定的な要因となります。データが、補助金獲得のための「戦略的ストーリー」を提供したとも言えるでしょう。
地域経済の収益性と持続可能性への効果
データに基づき、移動課題の解消と滞在体験の向上に投資することは、祖谷渓地域の収益構造に長期的な変革をもたらします。
1. 滞在深度化による高付加価値化
移動の不便が解消されると、観光客は地域内を巡りやすくなり、滞在日数が自然と延長します。これにより、従来の「日帰り・通過型」の観光から、「周遊・滞在型」へとシフトし、宿泊施設、地元飲食店、アクティビティへの消費が増大します。これは単なる客数増ではなく、客単価(消費額)の増加という形で、地域への収益(ROI)を明確に向上させます。
2. 異業種連携による持続可能性の強化
建設会社が観光事業に参入したことは、観光産業の担い手の裾野を広げた点で重要です。地域経済は多角化され、観光業特有の景気変動リスクを分散できます。また、建設業の持つインフラ整備やメンテナンスのノウハウは、観光施設の持続的な運営(サステナビリティ)に直結します。これは、既存の業界の枠を超えて、地域課題(移動の不便)をビジネスチャンスに変える動きであり、地域全体の経済成長の原動力となります。
データ活用によって、地域住民の生活に必要なインフラ改善(移動サービス)が、観光客の利便性向上と収益向上に繋がるという、「観光と住民生活の共存」モデルが実現しやすくなります。
(あわせて読みたい:観光DX:データ主導で意思決定、収益と持続可能性を創出)
他地域が模倣できる汎用性の高い教訓
徳島県祖谷渓の事例は、「秘境」という特殊な環境下での取り組みですが、その成功の裏には、他の自治体やDMOがすぐにでも模倣できる、極めて汎用性の高いDXの教訓が隠されています。
1. 「データの民主化」と「気づき」の提供
重要なのは、高度なデータ分析ツールを導入することよりも、「データを地域経済の担い手である民間企業に分かりやすい形で提示し、『気づき』を与えること」です。祖谷渓の場合、「59.1%」という数字は、単なる観光統計ではなく、地元企業が投資に踏み切るための明確なビジネス機会の言語となりました。
自治体やDMOは、データを囲い込むのではなく、地域事業者が自社の事業構造を変革できるような、具体的で収益に直結する分析結果を定期的に公開し、異業種参入を促す役割を担うべきです。
2. ラストワンマイルの「不便」こそ収益の源泉
地方観光地において、観光客の「不便」の多くは移動、特に「ラストワンマイル」に集中しています。この祖谷渓の事例は、観光客が移動のために支払うコストや時間を削減することが、結果的に地域内消費(収益)を最大化するという構造を示しています。
地域の観光DXを推進するにあたり、まずは移動データや観光客の行動ログを収集し、どの「不便」が最も収益機会を逸失させているのかを特定することが、投資の最優先順位を決定する鍵となります。
このアプローチは、セルフガイドツアーやオンデマンド交通サービスなど、観光客自身が主体的に移動や体験を選択できるデジタル基盤の導入とも強く連携します。移動の不便を解消し、観光客の自由度を高めることは、体験価値の向上と収益増加に直結するのです。
(あわせて読みたい:セルフガイドツアーでDX:地域課題解決と収益・持続性の鍵)
結論:DXは地域経済の「事業転換」を促す
自治体やDMOが目指すべきDXは、既存の観光プロセスの効率化に留まらず、データを用いて地域事業者の事業ドメイン転換を後押しすることにあります。祖谷渓の事例が示すように、データが、地元建設会社に観光サービスへの投資という大胆な意思決定を促し、それが地域の構造的な課題(移動の不便)を解消し、観光収益と持続可能性を高めました。
この成功の鍵は、地域に眠る「不便」をデータによって「収益機会」として言語化し、そのデータに共感し投資する、多様な民間主体の参画を促した点にあります。これが、デジタル田園都市構想やスマートシティ計画において、目指すべき真のDX戦略の姿です。


コメント