はじめに
地方自治体やDMOが推進するDX(デジタルトランスフォーメーション)は、単なる紙のデジタル化やウェブサイトのリニューアルでは終わらない。その真価は、地域がこれまで「勘と経験」に頼ってきた意思決定プロセスを、いかにデジタルデータ駆動型へと変革し、地域経済に持続的な収益をもたらすかにある。特に、急速に回復するインバウンド市場において、地方部が抱える「情報の不便」や「予約の壁」をいかに乗り越えるかは喫緊の課題だ。
本稿では、箱根DMO(一般財団法人箱根町観光協会)が導入した訪日外国人旅行者向けのAI予約サービスを具体例として取り上げ、導入されたソリューションの機能、データ活用の仕組み、そしてそれが地域の意思決定にどのような変革をもたらしているかを分析する。
箱根DMOが直面した「予約の壁」とAIソリューション
箱根は国際的な観光地でありながら、特に飲食店や体験アクティビティにおいて、訪日客が自力で予約を完了させるのが難しいという構造的な課題を抱えていた。多言語対応の不足、海外からの電話予約の難しさ、そして地域事業者の多くがデジタルツールに不慣れであるため、観光需要が高まるほど、機会損失もまた増大するというジレンマがあった。
この課題に対し、箱根DMOは東大発のAIスタートアップ企業と連携し、訪日客向けの飲食店AI予約サービス「レックリング(Reckling)」を導入した。(参考:観光経済新聞)
導入されたソリューション:レックリングの機能と特徴
レックリングの核となる機能は、アプリのダウンロードや複雑な登録手続きを一切必要としない、WebベースのAIチャットコンシェルジュである。訪日客は自身の使用言語を選択するだけで、AIとのチャットを通じて、料理ジャンルや予算、人数、アレルギー情報などの詳細な希望を伝えることができる。
具体的な機能:
- アプリ不要のWebチャットインターフェース:スマートフォンブラウザから即座に利用可能。利用障壁を極限まで下げる設計。
- 多言語対応AIチャット:複雑なニュアンスを含む予約条件や質問をAIが即時翻訳・処理し、スムーズなコミュニケーションを実現。
- 地域リソース連携:DMOが保有する地域内の飲食店データベース(営業時間、定休日、収容人数、座席状況など)と連携し、最適な店舗を提案。
- 予約代行機能:AIが提案した店舗に対し、最終的にDMOや地域のコンシェルジュが介入し、アナログな予約が必要な店舗に対しても電話やメールで予約代行を完了させる仕組み。
このソリューションは、観光庁やデジタル庁関連の公的補助金(デジタル田園都市国家構想推進交付金など)を活用した実証実験や導入フェーズを経ている場合が多く、自治体やDMOにとって初期投資のリスクを抑えつつ、先端技術を導入する標準的な手法となっている。
データ活用による意思決定の変革:なぜ「勘」では通用しないのか
レックリングのようなAIチャットサービスがDMOにもたらす最大の価値は、予約成立の有無にかかわらず、全ての「試行データ」が記録され、地域の意思決定の基盤となる点にある。これは従来の観光統計やアンケート調査では決して得られなかった、インバウンド市場の「生きた需要データ」である。
収集されるデータとその分析例
AIチャットは、訪日客が何を求めて検索し、どの条件で予約を断念したかという詳細な行動ログを収集する。具体的には以下のデータが取得可能となる。
- 需要の集中と潜在的な機会損失:
「月曜日の19時台に、5人グループで、特定の地域(例:強羅)の高級寿司店」を検索したが、利用可能な店舗がなかったというログ。
- 言語別・国籍別の嗜好性の差:
欧米圏の旅行者が特にグルテンフリーやヴィーガン対応を頻繁に求めているログ。アジア圏の旅行者が個室や大人数での利用を求めているログ。
- 情報ギャップの特定:
多くの客が「〇〇温泉の近く」での食事を求めているにも関わらず、その周辺の飲食店情報がデジタル化されていない、あるいは営業時間が短いといった課題の特定。
データ駆動型の意思決定(D/D)
これらのデータをDMOが分析することで、意思決定は劇的に変化する。これまで「外国人旅行者は昼間の周遊がメインだろう」という「勘」に基づいていた観光政策が、「実際には、滞在エリア内で夜間の飲食需要が深刻な供給不足に陥っている」という「データ」に基づいた政策へとシフトする。
意思決定の具体例:
- 事業者への具体的な収益改善提案:「データによると、週末の夕食時間帯(20:00以降)に特定のターゲット層からの予約要求が50%集中している。営業時間を30分延長すれば、月間売上がX%増加する見込みがある」といった具体的な根拠をもって、地域事業者に働きかける。
- 地域交通インフラの最適化への連携:夜間の飲食需要が高いエリアと宿泊施設を結ぶバス路線の増便や、オンデマンド交通サービスの検討材料として、移動データを活用する。これにより、ラストワンマイルの課題解決と観光消費額の増加を両立させる。(あわせて読みたい:観光DX:データ主導で意思決定、収益と持続可能性を創出)
- 観光資源の開発投資:データが示す需要が高いにも関わらず、供給が不足しているジャンル(例:ハラール対応、高付加価値な体験型観光)に対し、DMOが事業者の新規参入を支援するための補助制度やコンサルティングを集中させる。
収益性(ROI)と持続可能性への貢献
AI予約システムの導入は、単なる利便性の向上に留まらず、地域経済に明確な収益と持続可能性をもたらす。
収益性(ROI)の視点
レックリングのようなサービスが、訪日客が直面する「不便」を解消し、予約を成立させることは、そのまま地域内の観光消費額の増加に直結する。予約難が解消されれば、訪日客がコンビニエンスストアや宿泊施設内で済ませていた消費が、地域内の飲食店や小規模事業者へと還流する。DMOは、このシステムを通じて成立した予約総額や、それによって生じた経済効果を定量的に把握でき、自治体予算や公的補助金に対する明確なROIを示すことが可能となる。
また、富裕層などの高付加価値層は、特に質の高い情報やパーソナライズされた体験を求める傾向にある。AIが高度なリクエストに対応できることで、彼らの満足度が向上し、リピート率や高額消費を促す効果も期待できる。
持続可能性(サステナビリティ)の視点
AIデータは、オーバーツーリズム対策にも寄与する。「いつ、どこで、どの程度の需要が集中しているか」をリアルタイムで可視化することで、DMOは特定の時間帯やエリアへの集中を避けるための誘導施策を迅速に打てる。
例えば、人気エリアの需要が飽和している場合、AIは代替案として、需要は低いが魅力的な他の地域(サテライト地域)の店舗を提案するようにアルゴリズムを調整できる。これは、観光客を地域全体に分散させ、特定のエリアへの負荷を軽減し、地域経済の裾野を広げる「分散化」戦略の鍵となる。
他の自治体が模倣できる「汎用性の高いポイント」
箱根DMOの事例は、特定の観光地に特化したものではなく、多くの地方自治体やDMOが共通して導入できる教訓を含んでいる。
1. 特定の「痛点」に絞ったスモールスタート
DXプロジェクトで失敗しやすいのは、「全てを同時にデジタル化しようとする」試みである。箱根の事例では、「訪日客の飲食店予約難」という明確な一つの課題に絞り込み、そこに特化したAIソリューションを導入した。これにより、地域事業者の協力を得やすく、効果測定も容易になる。
汎用性:地方の観光地であれば、「二次交通の不便」「体験アクティビティの予約難」「宿泊施設での多言語対応の負荷」など、最も地域経済のボトルネックとなっている「痛点」一つに焦点を当て、それを解消する最小限のデジタルツール(MVP:Minimum Viable Product)から始めるべきである。
2. 「アプリ不要」のサービス設計思想
訪日客は、旅行先ごとに新たなアプリをダウンロードすることを嫌う。レックリングのように、WebブラウザやSNS連携で完結する「アプリ不要」の設計は、ユーザーの利便性を最大化し、利用率を飛躍的に高める。これは、現場の利用促進において非常に重要なポイントであり、あらゆる観光DXソリューション開発における基本原則となる。
3. DMOによる「データのオーナーシップ」と「フィードバック責任」
最も重要なのは、導入したソリューションから得られたデータを、ベンダーや外部業者任せにせず、DMOや自治体が「データのオーナーシップ」を持つことである。そして、そのデータを分析し、地域の事業者に分かりやすい形でフィードバックする責任を果たすこと。
例えば、DMOが「データに基づき、このエリアのこの時間帯は需要が逼迫しているため、あなたの店でX%の収益アップのチャンスがある」という具体的な提案を行えば、事業者側のDXへの取り組み(例:多言語メニュー導入、デジタル予約対応)を自発的に促すことができる。データ活用とは、単に行政が分析するだけでなく、地域全体の行動変容を促すための共通言語として機能させることに価値がある。
結論
自治体やDMOが進めるDXの成否は、いかに優れたツールを導入したかではなく、そのツールから得られた「生きたデータ」を、いかに迅速かつ的確に地域の意思決定に反映させられたかにかかっている。箱根DMOの事例は、AIチャットという導入しやすい技術で、長年の課題であった「情報格差」を解消し、その過程で獲得したデータを地域全体の収益最大化と持続可能性の担保に繋げる、現代的な観光DXの模範例といえるだろう。多くの地域が、同様の戦略に基づき、特定の課題に特化したデジタルソリューションの導入とデータ駆動型意思決定への転換を図るべき時期に来ている。


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