はじめに
記録的なインバウンド回復が続く日本の観光業界において、その成長の陰に隠された構造的な課題が、海外の専門メディアから鋭く指摘されています。日本の大手旅行会社JTBのトップが海外メディア『Skift』のインタビューで示した見解は、観光行政や地域事業者が今、取り組むべきデジタルトランスフォーメーション(DX)の方向性を明確に示唆しています。
2025年の訪日外国人旅行消費額が過去最高を更新する中、焦点は「オーバーツーリズム(観光公害)」対策に集中しがちですが、JTBの山北社長兼CEOは、問題の本質はそこにはないと断言します。彼が指摘したのは、「Distribution(流通)」の問題です。すなわち、日本は旅行者を受け入れる十分なキャパシティを持っているにもかかわらず、その大半が東京、京都、大阪といったごく一部の都市に集中しているという、構造的な非効率性です。
この指摘は、単なる混雑緩和策の必要性を超え、地方の潜在的な収益力を解き放ち、日本全体の観光収益(ROI)を持続可能なものに変えるための、根本的なDX戦略を要求しています。
海外が評価する日本の「未開拓な可能性」と「真の弱点」
海外メディアは、日本の文化、食、そして都市と自然が調和した多様な風景を高く評価しています。しかし、その評価の裏側で、観光客の流れが特定の「ゴールデンルート」に偏り、地方の豊かな資源が十分に活用されていない現状を、日本の観光システムの「弱点」として指摘しています。
Skiftの記事(JTB CEO Says Japan’s Tourism Problem Is Distribution, Not Overtourism – Skift)の要約によれば、JTBはすでに、この集中を解消するために、北海道、東北、瀬戸内、九州、そして東京・金沢・京都を結ぶ「レインボールート」といった地方周遊ルートの開発を進めています。これは、地方にはまだ大きな未開拓の観光ポテンシャルがあるという認識に基づいています。
しかし、この流通の課題は、単に旅行会社が新しいルートを提案すれば解決するほど単純ではありません。旅行者が大都市から地方へ「流通」しない背景には、次の二つの根本的な「壁」が存在します。
- 移動(アクセス)の壁:地方における多岐にわたる交通手段の乗り継ぎ、予約、情報収集が非効率であり、旅行者、特に高単価消費が見込める個人旅行者にとって大きな「不便コスト」となっている。
- 情報と体験の流通の壁:地方の隠れた魅力や高付加価値な体験(文化、専門知)が、統一されたデジタルプラットフォーム上で商品として検索・予約・決済され、「流通」する仕組みになっていない。
この流通の非効率性が、結果として大都市圏のオーバーツーリズムを悪化させ、地方の宿泊施設や地域交通がインバウンド需要の恩恵を十分に享受できないという、構造的な収益機会の損失を生み出しているのです。
現場の収益構造を歪める「流通の壁」
「流通の壁」がもたらす影響は深刻です。大都市では混雑による住民のQOL(Quality of Life)低下やインフラへの過負荷が発生し、地方ではせっかくの観光資源が収益に結びつかず、地域交通の赤字拡大やサービス提供者(担い手)の不足に拍車がかかります。
特に地方の観光現場が直面する課題は、単なる「人手不足」ではなく、「収益性の見えない投資」です。例えば、地方のローカルバス路線や、離島へのフェリー、あるいは地方自治体が管理する文化施設の多くは、観光客が集中しないため、多言語対応やデジタル決済の導入といったDX投資のROI(投資対効果)が見えにくい状況にあります。これにより、インフラやサービスは「古いまま」維持され、それがさらに旅行者の地方への足が向かない要因となっています。
Skiftの記事が指摘するように、地域側が安易に観光客向けの「二重価格制」を導入しようとすることは、サービスの質や流通体験の改善が伴わなければ、かえって日本の評価を下げるリスクがあります。必要なのは、価格ではなく、高付加価値な体験をシームレスに提供し、適正な対価を得るためのデジタル流通インフラです。
流通再構築の核:移動と体験を結合するデータ基盤DX
この「流通の壁」を打破し、地方の潜在収益力を顕在化させるために、地域側が今すぐ取り組むべきデジタルトランスフォーメーションは、「移動データと体験データを統合した流通基盤の構築」です。
1. 移動DXによる「摩擦ゼロ」のアクセス保証
地方への観光客の誘導を成功させるためには、大都市での移動体験と同等、あるいはそれ以上のシームレスな移動体験を地方で提供する必要があります。これは、単なるMaaSアプリの導入ではなく、地域全体の交通機関(鉄道、バス、タクシー、オンデマンド交通)の運行・予約・決済・乗車データを一元管理し、旅行者のデジタルIDと連携させるデータ基盤の構築を意味します。
これにより、旅行者は出発地から目的地(旅館、秘境、特定の体験スポット)まで、異なる交通事業者間を意識することなく、ワンストップで予約・移動できます。この「摩擦ゼロ体験」こそが、地方への移動の心理的障壁を劇的に下げ、「流通」を可能にする生命線です。
さらに、この移動データを収集・分析することで、「どの時間帯に、どのルートで、どの属性の旅行者が、どれだけの消費意欲を持って移動したか」というROIに直結する知見を得ることができます。この知見に基づき、地域交通事業者は、需要変動に応じた動的な料金設定や運行計画の最適化が可能となり、補助金に頼らない持続可能な収益モデルを確立できます。(あわせて読みたい:JTB指摘の「流通問題」解決へ:三大不便解消からデータ資産化戦略へ)
2. 専門知のデータ化と高付加価値ルートの商品化
地方の観光資源の真の価値は、その土地に根ざした職人、ガイド、地域住民の持つ「専門知」にあります。しかし、この専門知は往々にして属人化しており、デジタルな流通経路に乗っていません。高単価の富裕層は、単なる名所巡りではなく、深い文化体験や人との交流に価値を見出します。
必要なDXは、これらの専門知(例:地域の歴史、伝統工芸のバックストーリー、秘境のアクセス方法、特別な料理の食材)を体系的にデジタルデータ化し、AIを活用して個々の旅行者の関心に合わせたパーソナライズされた「周遊ルート」や「体験パッケージ」として設計し直すことです。
このデータ化された高付加価値ルートを、前述の移動データ基盤と連携させることで、「移動」と「体験」が一体化した商品として海外の旅行エージェントやOTAを通じてスムーズに「流通」させることが可能になります。これにより、地方への誘導が促進され、結果として宿泊施設や地域事業者の収益が最大化されます。
現状、「日本の観光は複雑」であるという海外からの指摘は、まさにこの情報の断絶と流通の困難さに起因しています。(あわせて読みたい:「日本の観光は複雑」海外指摘:情報断絶を断ち高単価消費を掴むデータ基盤)
ROIと持続可能性:データ流通が創る地方創生の収益構造
日本の観光の未来は、大都市の「オーバーツーリズム対策」ではなく、地方の「流通不全」の解消にかかっています。流通が改善されれば、観光客の分散が自然と進み、大都市の負担が軽減されると同時に、地方に新たな収益の柱が生まれます。
このデータ駆動型の流通DXは、単なる利便性の向上に留まらず、地域経済に次の二つの確実な成果をもたらします。
- 収益(ROI)の最大化:移動データを活用することで、高付加価値な体験を提供する潜在顧客層をピンポイントで地方に誘導し、地方での滞在時間と消費単価を劇的に向上させます。
- 持続可能性(サステナビリティ):移動インフラや体験コンテンツの提供コストと、そこから得られる収益をデータで可視化・予測可能にすることで、地域交通の維持や文化資源の保存に必要な資金を、外部の補助金に頼らず、観光収益自体で賄う自立的な経済構造を確立できます。
JTB CEOの「問題は流通だ」という指摘は、日本の観光セクター全体に対し、アナログな旅行商品の販売促進ではなく、デジタルな流通インフラへの戦略的投資を促す強力なメッセージであると理解すべきです。2025年現在、地方自治体や観光協会、地域交通事業者が連携し、このデジタル流通基盤の構築に資源を集中投下することこそが、日本の観光を次なる成長フェーズへと押し上げる決定的な一手となるでしょう。


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