はじめに:移動の「不便」を地域経済の「成長エンジン」に転換する2026年の視点
2026年現在、日本の地方観光地が直面しているのは、単なるオーバーツーリズムの問題ではありません。観光客が目的地に辿り着けない「移動の断絶」と、地域住民の生活を支える公共交通の維持限界という、二律背反する構造的課題です。これまで「おもてなし」という精神論でカバーされてきた移動の不便は、今や地域のROI(投資利益率)を著しく低下させる要因となっています。
かつての観光MaaSは「一つのアプリで予約・決済ができる」という利便性ばかりが強調されてきました。しかし、現在求められているのは、移動を単なるコスト(出費)として捉えるのではなく、そこから得られる行動データを地域経済の「収益資産」へと再定義することです。本記事では、青森県弘前市で進められている最新のMaaS実証実験を切り口に、ラストワンマイルの解消と地域交通の持続可能性をいかに両立させるかを深掘りします。
「ひろさきMaaS」に見る、雪国・地方都市の生存戦略
2026年2月19日、マイナビニュース(TECH+)が報じたところによると、弘前市では公共交通が定額で乗り放題となる「ひろさきMaaS」の実証実験を令和7年度(2025年度)から令和8年(2026年)2月にかけて実施しています。
参考:弘前市、公共交通が定額で乗り放題「ひろさきMaaS」実証 – 渋滞と公共交通の利用者減少の解決を(マイナビニュース TECH+)
この取り組みが特筆すべきなのは、単にバスや鉄道を連携させるだけでなく、「渋滞緩和」と「利用者減少の食い止め」という、地方都市が抱える最も深刻な現場課題に正面から向き合っている点です。特に弘前市のような積雪地帯では、冬期間の自家用車依存が深刻な交通渋滞を引き起こし、結果として公共交通の定時性を阻害するという悪循環に陥っています。
「ひろさきMaaS」は、弘南バス、弘南鉄道、さらには乗合タクシーといった複数のモードを一つのパッケージに統合することで、観光客にはシームレスな移動体験を、住民には自家用車に頼らない生活の足を提供しようとしています。これは、移動の摩擦を解消することが、結果として地域全体の経済効率を高めるという「地域収益OS」の考え方を具現化した事例と言えます。
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ラストワンマイルを埋める「特定小型原付」と「ライドシェア」の現場実装
観光地における最大の問題は、主要な駅から目的地までの「最後の数百メートルから数キロメートル」にあります。弘前市の事例でも見られるように、基幹となる鉄道やバスだけでは、点在する観光スポットや住宅地をカバーしきれません。ここで重要になるのが、規制緩和によって社会実装が進んだ電動キックボード(特定小型原動機付自転車)と日本型ライドシェアの役割です。
2023年7月の道路交通法改正以降、16歳以上であれば免許不要で利用可能となった電動キックボードや電動サイクルは、特に都市部や観光地でのラストワンマイル対策として定着しました。しかし、2026年の今、重要なのはその「運用方法」にあります。単に車両を置くだけではなく、以下の3点が現場でのROIを左右します。
1. 動的配置(ダイナミック・ポート)の最適化:
移動データに基づき、観光客の滞留時間や時間帯別の需要を予測して車両を配置します。これにより、稼働率を最大化し、放置車両などの地域住民の反発(摩擦)を最小限に抑えます。
2. 住民とのシェアリングエコノミー:
観光客が使わない夜間や早朝には、地域住民が低価格で利用できるサブスクリプションモデルを導入することです。これにより、観光インフラを「住民の生活インフラ」としても機能させ、持続可能性を確保します。
3. 日本型ライドシェアとの連携:
タクシー不足が深刻な過疎地や夜間の移動において、自家用車を活用したライドシェアは不可欠です。2024年4月から段階的に解禁されたライドシェアは、現在、観光交通の空白地帯を埋める重要なピースとなっています。
移動データが書き換える観光マーケティングの投資対効果
MaaSの真の価値は、予約・決済の利便性ではなく、その裏側で蓄積される「高解像度な行動ログ」にあります。2026年の観光経営において、このデータを活用しない手はありません。従来の観光統計は「どこから来たか」「どこに泊まったか」という断片的な情報が主でしたが、MaaSによる移動データは「どのルートを通り、どのスポットで足を止め、次にどこへ向かったか」という連続的な動線を可視化します。
このデータは、自治体や観光協会にとって強力な意思決定の根拠となります。
例えば、特定の時間帯に特定のルートで移動が集中していることが分かれば、そこに限定的なシャトルバスを増便したり、逆に空いているルートにインセンティブ(クーポン等)を付与して観光客を誘導したりする「動的制御(ダイナミック・ルーティング)」が可能になります。
さらに、この移動データを地域の飲食店や小売店と共有することで、店舗側は「15分後に20人の団体が移動してくる」といった予測に基づいたオペレーションが可能になります。これは現場スタッフの負担軽減(摩擦解消)に直結し、結果として客単価の向上とサービス品質の維持という実利をもたらします。
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住民の「生存の質」と観光客の「満足度」を両立させる持続可能なモデル
観光MaaSの失敗パターンの多くは、観光客専用のツールとして開発され、地域住民にメリットが還元されないケースです。2026年の今、私たちが目指すべきは、「観光が地域の交通インフラを支え、強化する」モデルです。
弘前市の「定額乗り放題」という実証実験も、観光客の利用料金が公共交通の維持費を補填し、その結果として住民が利用するバス路線の廃止が食い止められるという構造が必要です。また、自動運転技術の実装も加速しています。特定の観光ルートを自動運転バスが巡回することで、浮いたドライバーのリソースを、より複雑な対応が必要な住民向けのデマンド交通に回すといった「リソースの最適化」が現場で行われています。
このような取り組みは、単なる「便利なツールの導入」ではありません。人口減少社会において、地域が生存し続けるためのインフラ再設計なのです。移動の摩擦をテックで解消し、そこから得られた収益とデータを地域に再投資するサイクルこそが、真のサステナビリティを構築します。
結論:移動を「コスト」から「地域収益OS」へ昇華させよ
2026年、日本の観光地が勝つために必要なのは、豪華な施設や派手なプロモーションではありません。「行きたい場所に、ストレスなく辿り着ける」という極めて当たり前で、しかし最も困難な課題を、データとテクノロジーで解決することです。
「ひろさきMaaS」のような取り組みは、地域全体の移動リソースを統合し、行動ログを資産化する第一歩です。移動の不便という「負の資産」を、マーケティングの宝庫である「行動データ」に変える。このパラダイムシフトを受け入れ、現場の実課題に即した実装を行う自治体や事業者が、次の時代の観光経済を牽引することになるでしょう。
もはやMaaSは「あったら便利なツール」ではありません。地域経済の血流を止めないための、そして現場のROIを最大化するための不可欠な経営インフラなのです。


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