はじめに:三大不便解消の「その先」に現れた構造的リスク
2025年現在、日本のインバウンド市場は記録的な回復を見せています。観光行政や現場が長らく取り組んできた「言語の壁」「決済の不便」「移動の複雑さ」という三大不便の解消は、AI翻訳、多言語対応決済端末、MaaS(Mobility as a Service)の実証実験といった最新テクノロジーの導入により、徐々に成果を出しつつあります。
しかし、利便性の向上は、必ずしも観光の持続可能性や地域経済の真の収益増加に直結するわけではありません。むしろ、移動やアクセスの摩擦が低減した結果、特定のエリアに需要が集中し、地域住民の生活環境や文化資源を脅かす「行動摩擦」が、新たな構造的なリスクとして顕在化しています。
この現実は、利便性向上のためのテクノロジー投資を、収益最大化と持続可能性確保のためのデータインフラ投資へと再定義する必要性を突きつけています。単なる「不便解消」で終わる観光DXは、かえって地域にコストと摩擦を残すことになりかねません。
現場が直面する「行動摩擦」の現実:富士吉田市の事例から学ぶ
外国人観光客の増加に伴う具体的な課題として、山梨県富士吉田市での取り組みが国際的に注目を集めました。BBCニュースの報道(Japan cherry blossom festival cancelled over badly behaved tourists – BBC)によると、富士吉田市は、観光客の迷惑行為を理由に2026年の桜まつりを中止すると発表しました。
記事では、観光客が「許可なく民家のドアを開けてトイレを使用しようとした」り、私有地で排泄したり、ゴミを散らかしたりする行為が報告されています。これは、富士河口湖町が富士山の絶景スポットでの迷惑行為対策として、一時的に大きな目隠しを設置した事例とも共通する、深刻な問題です。
この事態は、以下の重要な構造的課題を示唆しています。
- 利便性と行動規範の断絶:最新テックによる移動や情報提供の利便性が向上しても、旅行客がその地域の文化や生活環境を理解し、尊重する行動規範(トラフィック・マナー)は自動的に担保されない。
- 管理コストの増大:行動摩擦は、ゴミ処理、警備、苦情対応、そして最終的には景観を遮る物理的な障壁設置といった、収益を生まない管理コストとして地域にのしかかる。
- 地域住民のQOL低下:住民の生活圏が侵食されることで、地域内での観光への感情的な受容性(キャパシティ)が低下し、観光の持続性が崩壊する。
この行動摩擦を解消し、観光客の「不便解消」を真の「客単価アップ」や「滞在時間延長」という収益に繋げるには、テックを「管理・統制」のツールとしてではなく、「信用資産の構築」と「動的な誘導」のためのインフラとして活用する必要があります。
テックによる「三大不便解消」から「収益最大化」への転換戦略
言語、決済、移動の不便を解消するために導入されるAIやバイオメトリクスなどのテクノロジーは、単なる機能提供で終わらせてはなりません。それらを旅行者の行動をデータ化し、適切なインセンティブ設計を行うための基盤として活用します。
1. バイオメトリクス決済・デジタルIDの再定義:摩擦ゼロ体験から信用資産の構築へ
顔認証や指紋認証といったバイオメトリクス決済は、外国人にとって最大の不便の一つである「決済」を劇的に簡便化します。しかし、真の価値は、そのデータ取得能力にあります。
- 単なる利便性:手ぶらで決済可能。
- 収益最大化の視点:デジタルID(バイオメトリクスに紐づく匿名化された情報)は、決済やアクセスデータを統合し、その旅行者が地域内でどのような行動を取り、どれだけの付加価値消費をしたか、そして過去に地域のルールを遵守したかという「行動履歴=信用資産」を動的に評価する基盤となります。
このデジタルIDと行動履歴データが統合されると、地域側は以下のような高収益モデルを設計できます。
【客単価アップへの寄与】
デジタルIDを通じて、高単価消費の実績がある旅行者や、地域に迷惑行為がない「優良顧客」と判断された層に対し、パーソナライズされた高付加価値体験(例:予約困難な老舗の特別アクセス権、未公開エリアへのガイド付きツアー)を優先的に提供します。これは、マスを相手にした利便性提供ではなく、特定の層の「滞在満足度」と「消費単価」を最大化する戦略です。
2. AIとMaaSの連携:滞在時間延長と混雑回避の両立
移動の不便解消として進められるMaaS(Mobility as a Service)は、AIによる動的ルーティングと組み合わせることで、地域内の移動を最適化します。
富士吉田市のような課題は、旅行客が特定時間帯に特定のスポットに集中することによって起こります。この問題に対し、イタリアのヴェネツィアやローマ(トレヴィの泉への入域料導入)が物理的・金銭的な制限を導入し始めたように、日本もデジタルな制御が必要です。
AIは、リアルタイムの混雑データ(人流センサー、MaaS利用データ)と、観光客の潜在的な関心データ(デジタルIDに紐づく予約・閲覧履歴)を組み合わせて分析します。
【滞在時間延長への寄与】
AIは混雑の少ない時間帯や代替スポットを自動で提案し、旅行客の行動をより分散させることができます。これにより、旅行客は目的地待ちの時間を解消し、その時間を地域内の他の消費活動(飲食、二次体験など)に充てることが可能になります。結果的に、一地域での滞在時間が延長され、全体の消費額が増加します。
特に地方では、観光客の移動データを「コスト」ではなく「資産」に変える取り組みが不可欠です。詳細は『富良野が挑むMaaSの真価:移動と消費データを資産化する決済基盤戦略』でも論じています。
海外事例を日本の地方が導入する際の障壁と解決策
海外では、シンガポールのような都市国家だけでなく、欧州の歴史都市でも、行動制限や動的な価格設定が導入され始めています。これらの取り組みを、特に担い手が不足し、デジタルリテラシーに地域差がある日本の地方自治体が取り入れるには、いくつかの深刻な障壁が存在します。
障壁1:データ統合と利害関係者の調整
地方自治体や観光協会、交通事業者は、それぞれ独自のシステムとデータを保有しており、統合的なデジタルID基盤やMaaSシステムを構築する際の連携が困難です。地域全体でROI(投資対効果)を最大化するためには、移動データ、決済データ、予約データをシームレスに連携させる必要があります。
【解決策:中立的なトラスト基盤の構築】
特定の事業者に依存せず、複数の事業者間で匿名化されたデータ(例:誰がいつどこで何を購入したかではなく、特定のセグメントの旅行者がどこからどこへ移動し、いくら消費したか)を共有・活用するための「トラストアーキテクチャ(信頼基盤)」を自治体が主導で構築する必要があります。これにより、データ所有権の問題を回避し、全員がデータ利用の恩恵を受けられるようにします。
障壁2:デジタル投資の「短期ROI」への懸念
三大不便解消のツール導入(例:AI翻訳機の購入)は短期的な効果が見えやすい一方、デジタルIDやトラスト基盤の構築はインフラ投資であり、短期的な収益増が見えにくいため、予算獲得が難しい傾向にあります。
【解決策:住民QOLと収益還元モデルの設計】
観光DX投資の目的を「観光客のため」だけでなく、「住民のQOL向上とインフラ維持」に設定し直します。移動DXで得られたデータや収益を、住民向け公共交通の維持・改善に充てるなど、地域住民に具体的なメリットを還元するモデル(レベニューシェアモデル)を先に提示することで、長期的なデジタルインフラ投資への理解を得るべきです。
過去記事『移動DXの真の目的:コストからデータ資産へ、住民QOLと収益を両立せよ』で論じたように、テックは住民と観光客の利益を対立させるのではなく、調和させるための道具です。
障壁3:プライバシーと行動制限への懸念
行動データを取得し、それを基にアクセス制限や動的な価格設定を行うことは、特に欧米豪からの観光客を中心に、プライバシーや自由な旅行体験の阻害として受け取られるリスクがあります。
【解決策:オプトインによる高付加価値化】
デジタルIDやバイオメトリクスの利用を強制するのではなく、「オプトイン」(任意での利用選択)を基本とします。代わりに、オプトインした利用者に対してのみ、上記のような高付加価値な体験(例:シームレスな移動、特別ツアーへの優先アクセス、混雑回避情報)を提供します。これにより、旅行客は「プライバシーの提供」の対価として「より良い体験」を得るという、相互利益の関係を構築できます。
結びに:利便性の先にあるのは「信用のデータ化」である
日本の観光現場が直面しているオーバーツーリズムや行動摩擦の問題は、単なる「マナーの悪さ」で片付けられるものではありません。これは、三大不便解消という「利便性向上」のフェーズを経た結果、観光客の行動に対する「信用」を担保する仕組みが欠如しているために生じています。
最新のテクノロジー(AI、バイオメトリクス、MaaS)は、単に言語や決済の壁を取り払うだけでなく、旅行者の行動データを通じて、その旅行者が地域にとって「収益を生み、かつ持続可能性を損なわない優良な顧客である」という信用をデータ化し、動的に制御するインフラとして機能させることが肝要です。
このデータ基盤戦略こそが、富士吉田市で発生したような構造的な摩擦を解消し、利便性向上で得られた旅行客を、高単価消費と滞在時間延長に導くための唯一の道筋です。そうでなければ、観光DXの投資は、地域経済に持続的な収益(ROI)をもたらすことなく、管理コストと住民の不満だけを残す結果となってしまうでしょう。
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