はじめに
自治体やDMOが観光DXを推進する中で、最大の課題は「データ主導による意思決定の実現」に集約されます。しかし、2025年現在、そのデータ競争の構図が劇的に変化しています。従来の課題は、地域が「どうやって観光客の行動データを取得するか」でしたが、今は旅行者側が既に高度なデジタルツールを駆使し始めているのです。
特に生成AI(LLM)の急速な普及は、地域側の情報提供戦略と意思決定プロセスに対し、根本的な変革を迫っています。旅行者がChatGPTやGoogle GeminiといったAIを使いこなして旅程を組む時代において、自治体やDMOが提供する「公式情報」は、どのように差別化され、収益に結びつく「資産」となるのでしょうか。
本稿では、旅行者のAI利用増加という外部環境の変化に基づき、地域がデジタル田園都市構想やスマートシティ計画で導入すべき真のデータ活用戦略について、具体的なソリューションとROIの観点から深く掘り下げます。
旅行者行動の変化:AIアドバイス利用率37%の衝撃
旅行者のデジタル行動は、私たちが想像する以上に進んでいます。米メディアCNNの記事(2026年1月31日付)が指摘した通り、旅行者の約37%がChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)を旅行アドバイスや旅程計画に利用しているという事実は、日本の観光行政にとって無視できない脅威です。
情報源:CNN
旅行者にとって、AIはパーソナライズされた旅程を瞬時に提供する「便利なツール」です。しかし、この利便性の裏側には大きな課題が潜んでいます。汎用LLMが提供する情報は、インターネット上の一般公開データや集合知に依存しており、しばしば古かったり、地域の特定の機微(文化的なマナー、特定の専門家しか知らない情報、リアルタイムの混雑状況など)を欠いていたりします。
この状況下で、自治体やDMOは従来の「公式ウェブサイト」「パンフレット」といった情報提供手段が、急速にコモディティ化し、価値を失っていくリスクに直面しています。旅行客がAIのアウトプットに満足してしまい、地域が収益を最大化するために設計した高付加価値な体験や、地域住民の生活圏と隔離された富裕層向けツアーといった情報に、適切にアクセスしなくなってしまうからです。
地域側の実課題:「勘と経験」の専門知とAIの距離
日本の観光地、特に地方部が持つ最大の資産の一つは、長年培われてきた「専門知」です。地元のガイド、老舗旅館の女将、地域交通の運転手などが持つ、季節の移ろいや天候に合わせた最適なルート、知られざる文化体験の背景情報は、極めて高付加価値な情報です。しかし、これらの知見は多くの場合、属人化しており、デジタル化されていません。
この「アナログな専門知」をデジタル化しようと、過去の観光DXでは「ガイドアプリの作成」「デジタルサイネージの設置」といった形で進められましたが、現場からは以下のようなリアルな課題が挙がっていました。
- 更新負荷の増大:情報は常に更新される必要があるが、現場スタッフは日常業務に追われ、アプリやWebサイトのデータ入力が滞る。
- 知見の喪失:ベテランスタッフの退職に伴い、彼らが持つ深い知見がデータとして残らず、デジタル化の努力が無駄になる。
- 収益との断絶:デジタルで提供される情報が、単なる「場所の紹介」に留まり、高単価な消費行動(特定の店舗での購入、特別体験の予約など)に結びつかない。
旅行者が外部AIに頼り始めると、この断絶はさらに深刻化します。外部AIが提供するのは「平均的な旅行体験」であり、その結果、観光客の消費も「平均的なもの」に収斂し、地域の収益(客単価や滞在時間)が伸び悩むことになるのです。
あわせて読みたい:「勘と経験」頼みの観光DXは終焉:データで導くROI重視の意思決定モデル https://tourism.hotelx.tech/?p=378
データ活用による意思決定の変革:地域知見を信頼性の高いデジタル資産に変える
自治体やDMOが推進すべきDXは、もはや「単なるアプリの導入」ではありません。外部の汎用AIに対して優位性を確立するための「データ信頼性基盤」への投資が不可欠です。デジタル田園都市国家構想交付金などの公的予算の活用において、この基盤構築こそが、ROIを最大化するための最優先事項となります。
導入ソリューション:RAGを活用したローカル・ナレッジハブ
自治体やDMOが導入すべきは、RAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)の仕組みを活用したローカル・ナレッジハブです。
RAGとは、外部の大規模言語モデル(例:ChatGPT)を利用しつつ、回答を生成する際に、事前に定義・収集された地域の信頼性の高いデータソース(ローカル・ナレッジベース)を参照させる技術です。
RAGソリューションの具体的な機能と効果
- 地域固有データの認証:自治体が公的に認めた情報源(埋蔵文化財調査データ、リアルタイム交通情報、地域ガイドの専門的な解説記録、災害情報など)のみをAIの回答ソースとする。
- 高付加価値な情報提供:一般情報とは別に、高単価ツアー利用者や特定の認証を経た旅行者(例:マイナンバー連携や公的認証デジタルウォレット利用客)に対してのみ、アクセスが許可されるニッチな専門知を提供するAPIを構築する。
- リアルタイム性の確保:地域の交通運行状況や、観光スポットの混雑度、宿泊施設の空き情報などを常時連携し、外部AIでは提供不可能な「今、この瞬間の情報」を提供する。
これにより、旅行者がAIに質問しても、その回答の根拠として地域のDMOが提供する「最も信頼性が高く、高付加価値な情報」が採用されるようになります。これは、旅行者にとってのUX(体験)向上だけでなく、地域側にとっては「情報による収益コントロール」を可能にします。
意思決定の劇的な変化:「何を見せるか」から「何を収益資産とするか」へ
データ活用によって地域の意思決定は以下のように変わります。
【旧来の意思決定】
「人気スポットの情報をWebサイトに載せ、より多くの人を呼び込もう」「アンケート結果に基づいて、不足しているパンフレットを増刷しよう」(供給者目線の施策)
【RAG基盤後の意思決定】
- データ信頼性の確保:「観光協会が提供するガイド知見データセットの網羅率が80%に達したため、これを活用した高単価セルフガイドツアーを新たに設計し、地域住民の専門家(ガイド)に収益を還元する仕組みを構築する。」
- 需要予測と分散:「移動データとAI問合せデータを突き合わせた結果、特定の富裕層セグメントは『〇〇遺跡』周辺の『隔離されたアクセスルート』情報に高い価値を置いている。この情報を有料ナレッジベースとして販売し、通常の旅行客とのアクセスを分離することで、オーバーツーリズムを避けつつ収益を最大化する。」
- 補助金のROI検証:「デジタル田園都市構想交付金で構築したナレッジハブへのアクセスログから、どの情報が、どの国・どの客層の予約・消費に繋がったかを検証し、次年度予算では収益性の高い情報収集・整備に資源を集中する。」
意思決定の軸が、「勘」や「人気投票」から、データに裏打ちされた「収益(ROI)」と「持続可能性(オーバーツーリズム回避)」へと完全にシフトします。
ROIと持続可能性:データ信頼性が生む収益構造
データ信頼性基盤への投資は、短期的には大きな初期コストを伴いますが、持続的な収益モデルを確立するための必須のインフラ投資です。
公的補助金の活用と費用対効果
この種のデータ基盤構築は、単なる「観光誘致」ではなく、地域のデジタルインフラの強化、情報格差の解消、および地域経済の活性化に資するため、デジタル田園都市国家構想交付金の類型に合致しやすいです。重要なのは、予算の使途を「観光アプリ開発」ではなく「地域固有の専門知/公的データのデジタル資産化と信頼性担保のための基盤構築」として明確に定義することです。
ROIの最大化ポイント:
- 専門知の多重収益化:今まで属人化していた専門家の知見をデータ化し、AIを通じて24時間365日提供可能にすることで、人件費の変動リスクを抑えつつ、その情報を高単価なサービス(プレミアム情報アクセス権、カスタム旅程サービス)として販売し収益を得る。
- コスト削減:リアルタイムデータ(混雑状況、交通状況)が正確に提供されることで、コールセンター業務や問い合わせ対応の負荷が軽減され、職員のコア業務への集中が可能になる。
- 持続可能な観光:移動データやAIへの質問ログから、地域資源への負荷を予測し、自動的に混雑情報を発信したり、代替ルートを提案したりすることで、特定の地域への集中を防ぎ、オーバーツーリズム対策と地域住民との共生を両立させる。
このデータ基盤は、観光だけでなく、防災情報、子育て支援情報、地域交通の最適化など、他の行政サービスにも横展開可能なため、投資対効果は極めて高くなります。
他の自治体が模倣できる「汎用性の高いポイント」
特定の技術や、大規模なスマートシティ計画でなくとも、どの自治体やDMOでも模倣し、導入可能な汎用性の高いアプローチは、「トラスト基盤としてのナレッジハブの概念導入」です。
1. 地域専門知のデジタル資産定義と標準化
まず、地域内のどのような情報(例:文化財、歴史的な背景、地元住民しか知らない飲食店、移動手段の裏技)が「高付加価値な専門知」にあたるのかを定義し、形式を標準化します。これはExcelやスプレッドシートでも開始できます。重要なのは、その情報の「信頼性」を担保するための作成者、最終更新日、公的保証レベル(DMO認定、行政認証など)のメタデータを含めることです。
2. 閉じた環境でのRAG実装の試行
いきなり大規模なシステムを構築するのではなく、職員や一部の地域ガイド向けに、RAGのプロトタイプを小さな範囲で試行します。自治体が持つ公的文書や観光パンフレット(PDFなど)をデータソースとし、それに対して質問できるチャットボットを構築し、外部の汎用AIと比較するのです。
このプロセスを通じて、「外部AIでは拾えない、地域にとって本当に重要な情報とは何か」を職員自身が理解し、データ整備の優先順位を決めることができます。
3. 移動データとの連携による収益化設計
AIが提供する情報が「移動」と結びつくことで、初めて収益に直結します。例えば、AIが「この絶景を見るための穴場ルート」を提案した場合、そのルートがオンデマンド交通や地域ライドシェアサービス(MaaS)の利用に繋がるように設計します。これにより、情報提供(データ)が移動サービス(インフラ)の利用収益に還元される構造が生まれます。
データ活用の最終目標は、単に情報を「便利」にすることではなく、その情報によって旅行者の消費行動を誘導し、その収益を地域のインフラ維持や住民サービスに還元する持続可能なエコシステムの構築にあるのです。
結び
旅行者がAIを使い始めた2025年以降、自治体やDMOは情報提供における「待ち」の姿勢では競争に勝てません。外部の汎用AIに対して、地域は「信頼性」「専門性」「リアルタイム性」という三つの差別化要因で対抗する必要があります。
これらを実現するのは、最新のアプリや派手なガジェットではなく、地道なデータ整備と、それを担保するデータ信頼性基盤(ローカル・ナレッジハブ)への戦略的な投資です。公的予算をこの基盤構築に集中させ、地域の専門知を収益を生むデジタル資産へと転換していくことこそが、デジタル田園都市構想における観光DXの核心であり、持続的な地域運営を可能にする唯一の道筋です。


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