はじめに: 記録的な成功と顕在化する構造的リスク
2025年、日本のインバウンド観光は新たな節目を迎えました。観光庁の速報によれば、訪日外国人旅行者数は年間4270万人を突破し、消費額も過去最高の9.5兆円(約600億ドル)に達しました。これは、政府が掲げる「2030年に6000万人」という目標に向けて大きな進展です。しかし、この記録的な成功の裏側で、海外メディアは日本の観光産業が抱える二つの深刻な構造的リスクを指摘しています。
米国を拠点とする観光業界専門メディアSkiftは、2026年1月21日付の記事「Japan Sets Tourism Record, but Visits from China Plunge」の中で、この二つの課題を明確に浮き彫りにしています。
一つは、特定の市場依存がもたらす地政学的なリスク。もう一つは、サービス産業における構造的な労働力不足です。これらは、単なる一時的な課題ではなく、日本の観光行政や地域事業者が今後、持続的な収益(ROI)を確立できるか否かを決定づける核心的な問題です。
海外から見た日本の評価点と、記事が指摘する「弱点」
海外からの評価は引き続き高く、特に以下の点が顕著です。
■評価されている点:高付加価値層の分散と多様な体験
Skiftの記事が引用するデータや、オーストラリアの専門メディアTravel Weeklyの記事が示すように、欧米、米国、オーストラリアからの訪問者が前年比で22%も増加しています。これらの市場からの旅行者は一般的に消費額が高く、滞在日数も長くなる傾向があります。
また、彼らの興味は、従来の「ゴールデンルート」(東京、大阪、京都)から、福岡、岐阜、新潟、岩手といった地方都市や、自然、アドベンチャー活動、本格的な文化体験(伝統的な宿への滞在、工芸体験、座禅など)へと分散しています。これは、日本が目指す「地方への経済効果の共有」という点で極めて好ましい傾向です。
■記事が指摘する二つの「弱点」
一方で、Skiftは日本観光の脆さを指摘しています。
1. 特定市場(中国)への依存リスクの顕在化:
歴史的に最大のインバウンド市場であり、他の国籍の訪問者よりも平均22%多く消費していた中国人旅行者の訪問数が、2026年に減少に転じ、これに伴いJTBは全体の到着数を3%減の4140万人と予測しています。特定の巨大市場の動向が、地政学的な要因などで大きく変動した場合、国内の観光経済全体が打撃を受けるリスクが浮き彫りになりました。持続的な収益性を確保するためには、リスクを分散させ、市場変動に強い供給体制を築く必要があります。
2. サービス産業の深刻な労働力不足:
訪問者数の増加がサービス産業に過度な圧力をかけている点が指摘されています。World Travel & Tourism Council(WTTC)のレポートによれば、日本は世界の観光・サービス部門において、最も労働力不足の影響を受ける国の一つであり、2035年までに労働力が29%不足すると予測されています。この人材不足は、単なる「人手不足」ではなく、「質の高いサービスを持続的に提供できる人材の不足」であり、地方に分散する高付加価値旅行者の体験価値を直接的に損なう要因となります。
労働力不足と市場リスクを克服する「守りのDX」
この二つの弱点は、観光・宿泊業界の現場に直接的な実害をもたらします。観光客が増えても現場が疲弊し、質の低下を招き、結果的にリピーターが減るという悪循環です。この構造的課題を打破するために、地域側が今すぐ取り組むべきDXは、単なる「便利なツールの導入」ではなく、「少ないリソースで収益性を最大化し、市場変動に耐えうる供給体制を構築する『守りのDX』」であるべきです。
具体的には、「労働力を代替するDX」と「リスク分散型の収益構造を構築するDX」に焦点を絞るべきです。
施策1:AI駆動型ダイナミックプライシングと自動化による収益の確保(リスク分散型収益構造)
特定の市場が落ち込んだとしても、欧米豪をはじめとする高付加価値層の増加傾向は続くと予想されます。重要なのは、この層から最大限の収益を確保し、売上を安定させることです。
- AI駆動型ダイナミックプライシングの導入:
宿泊施設や体験アクティビティにおいて、リアルタイムの需要予測と市場データ(国籍別動向、予約リードタイム、競合価格など)に基づき、AIが最適な価格を動的に決定します。これにより、単価の高い欧米豪からの需要期には収益を最大化し、特定市場の需要が落ち込んだ際には柔軟に価格を調整して機会損失を防ぐことが可能になります。これは、人的な判断に頼らず、データ駆動で市場リスクをヘッジする戦略です。
- 予約・コミュニケーションの完全自動化:
高付加価値層は、多言語対応されたオンラインでの予約完結を求めます。多言語対応のAIチャットボットやCRM(顧客関係管理)システムを導入し、問い合わせ対応、アップセル提案、チェックイン前の情報提供を自動化します。これにより、労働力不足の中で貴重な人的リソースを、高付加価値体験(例:ローカルガイド、パーソナルな迎賓)の提供に集中させることができます。
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施策2:ラストワンマイルの自立化とデータ活用(労働力代替型DX)
地方への分散が進むほど、深刻化するのが「移動の不便」と、それに伴う「地域交通の担い手不足」です。この移動課題の解決こそ、観光客の満足度と地域の持続可能性に直結します。
- オンデマンド型MaaSプラットフォームの構築:
タクシーやバスの運転手不足を前提とし、自動運転技術が本格的に普及するまでの過渡期において、地域住民や観光客の移動データを収集・解析するMaaS(Mobility as a Service)プラットフォームを導入します。このデータに基づき、デマンドに応じた最適なオンデマンド交通(地域の住民ドライバーを活用したライドシェア、小型EVのレンタル、コミュニティバスなど)を運行します。
この仕組みの核心は、移動サービスを「人手による供給」から「データ駆動型のインフラ」へと転換することです。運転手に依存しない自立的な移動手段(例えば、自動運転シャトルや遠隔監視型の小型モビリティ)の導入を段階的に進めるための基盤となります。
- 収益(ROI)の視点:
移動の不便を解消することは、地方滞在時間を延ばし、地域内消費を促します。MaaSプラットフォームを通じて得られた移動データは、どの観光資源が人気で、どの移動経路がボトルネックになっているかを可視化し、地域交通への投資判断(ROI)を明確にします。これにより、移動サービス自体がコストではなく、地域経済の収益源となるように設計することが可能です。
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施策3:スタッフ体験(EX)のDXによる定着率向上(労働力代替型DX)
労働力不足29%という予測は、日本の観光産業の「質」を根底から揺るがします。DXは、顧客体験(CX)だけでなく、現場スタッフの体験(EX: Employee Experience)を向上させ、定着率を高めるために必須です。
- 業務負荷の徹底的なデジタル化:
宿泊施設や観光案内所では、手作業で行われているバックオフィス業務(シフト管理、在庫管理、清掃指示、顧客情報の入力など)をAI/RPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)で自動化します。特に、言語の壁によって発生する多大なコミュニケーション負荷を、AI翻訳や多言語インターフェースによって最小限に抑えることが重要です。
- 「知見」をデータ化し、誰もが質の高いサービスを提供できる環境整備:
ベテランスタッフや地域住民が持つ「おもてなしの知見」や「非公開の情報」をデジタルプラットフォーム上に集積・標準化します。これにより、経験の浅いスタッフでもAIアシスタントを通じて、質の高いパーソナライズされた情報提供やサービス実行が可能になります。これは、属人化を排除し、労働市場の変化に強い組織構造を作るための鍵です。
結論: DXは「持続的な収益」を確保するための必須インフラ投資である
海外メディアの分析は、日本の観光が「訪問者数」という量的な成功に酔っている場合ではないことを示唆しています。目の前には、市場リスクと労働力不足という二つの巨大な壁が立ちはだかっています。
地域事業者が今、認識すべきことは、DXが「時代に合わせた飾り」ではなく、「持続的な収益を確保し、地域の生活インフラを守るための必須インフラ投資」であるという事実です。
高付加価値旅行者を地方へ誘導し、彼らの期待に見合うサービスを「人」に頼らず、データとテクノロジーで安定的に提供できるか。この転換を果たした地域のみが、2030年の目標達成後も、変動の激しい世界市場の中で収益を上げ続け、地域経済の再生を果たすことができるでしょう。


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